古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本郷椿社神社

 文覚(もんがく、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。
 摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19歳で出家した。
 京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天等、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたという。
 藤岡市本郷地域に鎮座する椿社神社は、建久年間(119098年)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まると由来碑には記している。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市本郷1867
              
・ご祭神 豊受姫命
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 春祭り 49日 秋祭り(神嘗祭)1019
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2222895,139.0707343,16z?hl=ja&entry=ttu

 小林風天神社から一旦北上し、国道254号線に合流後左折、その後高架橋手前を左斜め方向に進み、八高線の踏切を越えてすぐの「十石街道」に交わる十字路を左折し、暫く旧街道沿いを南方向に進行する。
 この「十石街道」は、新町宿で中山峠から分かれ、藤岡宿で下仁田街道と交差し、鬼石・万場を経て神流川沿いを遡り、十石峠を越えて信州佐久地方に至る街道である。山中の難道ではあったが、信州・武州を結ぶ脇往還として重要な役割を持っていたという。この十石峠は寛永8年(1631)白井関所が設けられ中山道の脇住還として多くの人々に利用されてきた。当時、信州から日に十石(約1500㎏)の米が馬によって運ばれて来たことから十石峠と呼ばれるようになったという。
 昔の街道であるので、道幅は狭いが、田畑風景の中にも民家も並ぶ通りを暫く進むが、2㎞程南下すると、進行方向左側は相変わらずの平坦な地形が続くが、右側は数メートル程度ではあるが高台(テラス)となっており、それが街道沿いに暫く続き、その高台が街道から離れる地点に本郷椿社神社は鎮座している。
 本郷椿社神社参道入口の西側には「藤岡市防災公園」があり、そこの駐車スペースに車を停めてから参拝を開始した。
 
     街道にある社に通じる石段      石段を登り終えると社号標柱と鳥居が見える。
        因みに「椿社神社」と書いて「つばきもりじんじゃ」と読む。
 
        本郷椿社神社 正面鳥居        鬱蒼とした林の間に一筋に伸びる参道

 本郷椿社神社が鎮座する藤岡市「美九里(みくり)」地区は、藤岡市の中心地区である「藤岡」地区の南西にあり、東西に長い地区である。この地区は明治22年の町村合併の際に、根岸・本郷・川除(かわよけ)・牛田(うした)・神田(じんだ)・矢場・保美(ほみ)・三本木(さんぼぎ)・高山の9村が合併してできた「美九里村」が基になっている。「美しい九つの里」が合併したことと、平安時代に置かれていた 高山御厨(たかやまのみくりや)の「みくり」の部分をとって現在の名称になったといわれている。
        
                                     拝 殿

 平安時代末には、武蔵国秩父出身の高山氏がこの地に居住していたが、東国を支配した源義朝は1131年に伊勢神宮に寄進してこの地に「高山御厨」(みくりや。荘園の一種)を成立させ、高山氏に管理を任せた。藤岡市本郷の「椿杜(つばきもり)神社」付近は「御厨の里」と呼ばれており、高山御厨の中心地だったと考えられている。その後、高山氏は木曽義仲や源頼朝に従軍し、子孫の高山重栄(しげひで)は1333年の新田義貞の鎌倉攻めに参陣して武功を立て、新田十六騎に数えられた。
 藤岡では、昔から農家の副業として養蚕、製糸、織物が一貫して行われ、その絹は「藤岡絹」「日野絹」と呼ばれて、桐生の「仁田山絹」と並び称された。江戸時代には十石峠街道と信州姫街道が分岐する藤岡宿が成立して絹の集積地となって「十二斎市」(月に12回の「絹市」)が立ち、諸国の呉服問屋が絹の買い付けなどを行う「絹宿」を出店して、上野国一の取引量を誇って賑わったという。
 高山御厨を管理した高山氏の子孫で、1830年に藤岡市高山に生まれた高山長五郎は、先祖伝来の屋敷を壊して蚕室を建てて研究を行い、明治16年に、通風を重視した田島弥平の「清涼育」と温湿度管理を調和させた「清温育」という飼育方法を確立した。
 椿社神社は建久年間(119098年)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まるという。その後、天正3年(1575年)高山吉重が再興したとされる。元は隣村にあたる神田(じんだ)に鎮座していたが、現在地へ遷座する際に椿社神社と改めている。
 
          神楽殿           神楽殿の近くに展示されているある瓦等
       
                         境内に設置されている「椿社神社」案内板
 由緒
 椿杜神社は、豊受姫命を主祭神として、本郷上郷(神明・波家田・道中郷)・川除・牛田の鎮守として祭っています。豊受姫命は稲や穀物の神で、本社は伊勢の豊受大神宮にあります。今から約九百年前、平安時代の天仁元年(1108)秋に浅間山が大爆発を起こして大量の火山灰を降らせ、上野国内の田畑が全滅状態になる大被害をうけました。この災害から復興するため緑野郡高山郷の東にあたるこの地方は、神の加護も願って天承元年(1131)伊勢の国の伊勢神宮(皇大神宮 内宮、豊受大神宮 外宮)の神領となって、高山御厨と呼ばれました。御厨というのは、伊勢神宮を祭る為の食料や布などを用意する御料地(荘園の一種)のことで、国税などは免除されます。上野国内には九ヶ所ほどできましたが、高山御厨は最も早く、最も広い二百八十町歩もの水田があり、毎年四丈布の白布十反と雑用料として十反をそれぞれ二宮に納めていました。そのため各地に伊勢神宮の分霊を祭る神明宮の社が建てられ、「神明様、大神様」と呼ばれて、その土地の祭場になり(供物を収納する倉庫にもなり)ました。高山御厨は秩父氏系の高山、小林両氏が地頭職を分割して支配に当り、鎌倉時代には高山庄(荘園)に発展して緑野郡の平坦地の大部分が含まれるようになりました。両氏共鎌倉幕府に仕える御家人となって活躍し、鎌倉街道も整備されました。戦国時代の天正三年(1575)に、高山遠江守吉重が神田字神明に鎮座する豊受大神宮の社を再興し、光明寺に守らせ、高山氏は永く神社の鍵領かりをしていました。江戸時代に東方の本郷字大神裏(現在地)に移転して、椿杜神社と名称を改めました。明治二十二年(1889)に、近在の九つの里が合併した時、御厨の事故に因んで美九里村の名が付けられました。明治四十二年(1909)には積木神社(牛田)、瓶酒神社(川除)、稲荷神社(波家田・道中郷・牛田)、琴平宮(波家田)、若宮八幡宮(牛田)、及び各末社九社等を合併し、祭神十一柱を併せ祭る村社となって、現在の形が整えられました。神社の建物は本殿(神明造り・板倉様式・中に正殿)、幣殿(相の間・向拝)、拝殿が続き西側に合祀社、北側に末社石宮、南東に社務所・手水舎、南西に神楽殿、南参道に神明鳥居・石灯籠・石段、北参道にのぼり旗台などが配置されています。境内はツバキ、カシ、スギ、ヒノキ、ウメ等が植林され、北に稚蚕飼育所の建物があります。祭礼行事は、春祭りの四月には豊作祈願、秋祭りの十月(神嘗祭)夜は土器奉置式(モリコボシ)の神事が行われ、神穀を七十五膳の土器に盛って神前に供えます。伝説「神明縁起」では、鎌倉時代の建久年間(11901198)に文覚上人が伊勢神宮を勧請されたと伝えています。
                               「椿社神社の由来」碑から引用
        
                     本 殿
        
                    拝殿の左側には境内社群が並んで鎮座されている。
 明治42年(1909年)に椿社神社に合祀された本郷上郷(神明・波家田・道中郷)・川除・牛田等各地の神社が保存されている。合祀された神社は「椿社神社の由来」碑文によると「積木神社(牛田)、瓶酒神社(川除)、稲荷神社(波家田・道中郷・牛田)、琴平宮(波家田)、若宮八幡宮(牛田)、及び各末社九社等を合併し、祭神十一柱を併せ祭る」と記載されている
 
         社殿の奥に鎮座する境内社・石祠、石碑群(写真左・右)


参考資料「藤岡市役所 企画部 地域づくり課 文化国際係HP」「一般社団法人群馬県測量設計業
     協会HP 上州の街道」「自衛隊群馬地方協力本部 本部長の群馬紀行」「Wikipedia」等

 
  

拍手[1回]


小林風天神社

 赤城颪(あかぎおろし)とは、群馬県中央部(赤城山)から東南部において、冬季に北から吹く乾燥した冷たい強風をさす。群馬全域では「上州空っ風(じょうしゅうからっかぜ)」と呼ばれる
 大陸のシベリア高気圧から日本列島に向けて吹いてきた風は、群馬・新潟県境の山岳地帯にぶつかることで上昇気流となり、日本海側に大雪を降らせる。山を登る時は湿潤断熱減率で温度が低下し、山を越えて吹き下ろす時は乾燥断熱減率により暖かく乾いた風となって吹き降ろす。このフェーン現象が赤城颪の要因である。群馬県太田市、同伊勢崎市の郊外では、赤城おろしにより畑地の砂が巻き上げられ空を黄色く染める光景が多く見られる。
 日本列島に到来する寒波により、歩くのが困難になるほどの強風となり、電車の遅延が生じる事もある
 赤城山方面から吹き降ろすことからこう呼ばれる。上記の理由により赤城山以北では「空っ風」であり「赤城颪」とは呼ばれない。
 かかあ天下(かかあでんか)、雷とともに群馬県の特徴を現すものとされ、「空っ風」と読むことで
3つを合わせて「群馬の3K」と呼ばることがある。因みに上毛かるたでは、「雷(らい)と空っ風、義理人情」と詠まれている。
 群馬県では有名な「上州の空っ風」を祀っているのであろうと推測される社が、藤岡市小林地域に鎮座する小林風天神社である。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市小林838
              
・ご祭神 級長津彦命 級長津姫命
              
・社 格 神撰幣帛供進指定社
              
・例 祭 春季祭典 319日 秋季祭典 1019
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2384948,139.0880828,17z?hl=ja&entry=ttu
 藤岡市北部小林地域に鎮座する小林風天神社。長浜皇大神社を一旦南下して国道254号線に合流後右折する。国道を西行して神流川に架かる「藤武橋」を過ぎると群馬県となり、最初の「小林」交差点を左折する。その後すぐ先には十字路があり、そこを左折すると右側前方に小林風天神社の社叢林が見えてくる。
 社に隣接して北側には小林公会堂があり、そこの駐車スペースをお借りして、参拝を行った。
 
      
小林風天神社の社号標柱           鳥居は社号標柱の先にある。
 旧上野国緑野(みどの)郡小林村。すぐ東側には田んぼや畑が広がり、更に奥には神流川の土手が見える。「風天神社」という神社名から当初「風からの災害を防ぐためから、冬は上州の空っ風赤城おろしから作物を守る」意味と取られがちであるが、「風による疫病を防ぐ」更には「神流川の水害から人々や作物を守る」という広義な意味も含まれると筆者は解釈した。
       
                      鳥居の先で右側に聳え立つご神木
        
                参道の先には社殿が鎮座する。
 日本神話における「風の神」は文字通り風をつかさどる神で、古代中国では風伯(ふうはく)といい、つねに雨の神「雨師(うし)」とともに、丙戌(ひのえいぬ)の日に西北で祭るという慣行があった。
『古事記』や『日本書紀』に記された神話の中では、シナツヒコが風神とされている。『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。
『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』一書六では、伊弉諾尊の吹き払った息が風神、級長戸辺(しなとべ)命となり、その別名を級長津彦(しなつひこ)命としている。「級長津彦」の方はヒコとあるので、『古事記』と同じく男神であるが、「級長戸辺」のベは女性を意味する語と解されるので、女神と考えられる。
 シナツのシは、ニシ・ヒムカシ・アラシなどに同じく、風を意味する言葉と考えられる。『日本書紀』の「級長津彦命」の表記を参考に、ナを長いの意と捉え、シナを風の長いことの意とする説がある。ツは助詞で、ヒコは男性の意とされる。また、シナツをシナト(風な処)と考え、風の吹き起こる処と解する説もある。シナトは、六月晦大祓祝詞に「科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く」とある。トは、単なる場所の意ではなく、入口のすぼまって奥行きに広がりのある場所を指すとする見方もあり、シナトを風の吹き起こる大元の戸口と解する説もある。
        
                                      拝 殿
『太平記』の記述として、(元寇の際)伊勢神宮の風宮に青い鬼神が現れ、土嚢(※風袋のこと)から大風を起こしたとあり、少なくとも室町時代には風神のビジュアル(風袋を持った青鬼)が確立していたことがわかる(※風袋に関して、大陸渡来であることは別項「風神雷神図」に詳しい)。このような鬼神型の風神は、青鬼の姿で表現される一方で、遠くヘレニズム文化から伝播したと見られる風袋(※これをふいごのようにして風を起こす)を背負った様式で描かれる。俵屋宗達の風神雷神図屏風はその代表的なものである。また、このような風神は雨の神と密接に関係しており、雨を呼ぶ稲妻を司る雷神は、風神と対をなす存在となっている。
 また平安時代の歌学書『袋草子』、鎌倉時代の説話集『十訓抄』には、災害や病気をもたらす悪神としての風神を鎮めるための祭事があったことが述べられていて、奈良県の龍田大社では74日に風神祭りが行われている。

 疫病神としての風の神は、空気の流動が農作物や漁業への害をもたらし、人の体内に入ったときは病気を引き起こすという、中世の信仰から生まれたものである。「かぜをひく」の「かぜ」を「風邪」と書くのはこのことに由来すると考えられており、江戸時代には風邪の流行時に風の神を象った藁人形を「送れ送れ」と囃しながら町送りにし、野外に捨てたり川へ流したりしたという。江戸時代の奇談集『絵本百物語』では、風の神は邪気のことであり、風に乗ってあちこちをさまよい、物の隙間、暖かさと寒さの隙間を狙って入り込み、人を見れば口から黄色い息を吹きかけ、その息を浴びたものは病気になってしまうとされる。また「黄なる気をふくは黄は土にして湿気なり」と述べられており、これは中国黄土地帯から飛来する黄砂のことで、雨天の前兆、風による疫病発生を暗示しているものといわれる。西日本各地では、屋外で急な病気や発熱に遭うことを「風にあう」といい、風を自然現象ではなく霊的なものとする民間信仰がみられる。

 一方仏教界において風天は天部の一人で、十二天・八方天の一に数えられる。風を神格化したもので、インドのヴァーユが仏教に取り入れられたものであり、また名誉・福徳・子孫・長生の神ともいう。仏教では、西北方の守護神。形象は、腕は2本で甲冑を着て片手に旗のついた槍を持ち、風天后・童子を眷属とするものがある。両界曼荼羅や十二天の一尊として描かれるほかは、単独で信仰されることはあまり見られないようだ。
 
      拝殿に掲げてある扁額           扁額の左側にある由緒額
 拝殿に飾られている『由緒・御神徳』には「五風十雨豊作守護神」「運命延長守護神」と書かれている。
「五風十雨(ごふうじゅうう」とは世の中が平穏無事である喩えである四字熟語。五日ごとに風が吹き、十日ごとに雨が降るという意から、それぐらいの間隔で雨や風となるのが農作業など自然環境でもバランスが良いとして、世の中が平和や天候が良い喩えとなるのが「五風十雨」である。
 
    社殿の左側にある石碑、石祠等       社殿の右側には稲荷大神が鎮座。  
真ん中の石碑には「猿田彦大神」と彫られている。


参考資料「精選版 日本国語大辞典」「三省堂 新明解四字熟語辞典」「Wikipedia」等
       

拍手[1回]


樋越神明宮

樋越神明宮の春鍬祭は、寛政10年(1798)にはすでに行われていたようです。この祭りはその年の豊作を予祝して行う田遊びの神事で、毎年2月11日に神明宮で行われます。神明宮の拝殿で祭典が行われた後、榊や樫の枝に餅をつけ、鍬に見立てたものを持った「鍬持(くわもち)」が拝殿の前でくろぬりの仕草などをし、祭典長の禰宜(ねぎ)が頃合いを見て「春鍬よーし」と叫ぶと、一同が「いつも、いつも、もも世よーし」と唱和します。これを3回繰り返すと、持っていた鍬を投げ、観衆が鍬を奪い合います。とった鍬を家に飾っておくと、養蚕があたり、また、一緒にまかれた稲穂のついたままの初穂を拾った人の家は、豊作間違いなしといわれています。
春鍬祭は平成14年2月12日に国の重要無形民俗文化財に指定されました
                                                  玉村町 ホームページより引用
所在地    群馬県佐波郡玉村町樋越412-1
御祭神    大日孁貴命
         豊受姫命 (配祀神 十四社)
社  挌    旧村社
例  祭    2月11日 春鍬祭  11月28日 例大祭
                                                                                            
         
 樋越神明宮は玉村町役場から北に進み、群馬県道24号高崎伊勢崎線の福島交差点を右折、そして福島橋南交差点を左折して利根川を渡り、最初の交差点(福島橋北)を右折する。道なりに真っ直ぐ進み、2㎞弱で森下交差点を左折すると左側に樋越神明宮のこんもりとした社叢が見える。
 丁度正面から神社を左回りで回り込んで来た関係で、駐車した場所は神社の裏の境内。しかも駐車場がないようなのでこの裏の境内に駐車し参拝を行った。

      県道沿いにある比較的新しい鳥居               鳥居の傍にある社号標石
         
                                                         拝殿前にある(三)の鳥居
                  実際には二番目なのだが三の鳥居には理由がある。

    三の鳥居を過ぎてすぐ右側にある神楽殿            神楽殿の隣にある案内板

神明宮・春鍬祭の由来と行事

神明宮の創立と位置
 長寛年号(1163~1165)頃、玉村御厨の中心として祭られていたもので、樋越古神明砂町にできた神社であり、安元年間(1175~1177)足利忠綱により再興され寛保二年(1742)の台風に依り大洪水が出て約五○○メートル位南に流され、現在の神人村神明原に位置しております。
 現在の所在地名は、玉村町樋越四一二-四になります。

春鍬祭の動機
 樋越古神明砂町の神明宮跡地は、天明三年(1783)の浅間山大噴火による土砂等によってその跡地は原形もわからないほどになってしまいました。樋越の耕作者神明宮跡地の神田・十箇所(一反歩)を掘り起こし、整地をして水を引き入れ、水田として稲作をしました。その神田から収穫した稲穂を、樋越の耕作者が作頭となって毎年献上したことが、現在の春鍬祭例大祭の始まりと言われています。
 寛政十年(1798)から現在まで毎年実施されており、今年で二百有余年になる伝統文化であります。

神明宮の御由緒記
 樋越の古神明砂町は、当時那波郷里の一角に属した大社であり、神官が十数人居た。
 祭日が現在の二月十一日になったのは、明治六年(1873)に暦が太陽暦に変わった頃に定められたと言われています。

神明宮の氏神(祭神)と祭典について
 大日孁貴命(内宮)
 豊受姫命 (外宮)と致し、配祀神は十四社を祀る。
 伊勢大神宮の御分霊を奉祀せるものにして高倉天皇の御代、安元年間藤原秀郷の末裔、足利又太郎忠綱が之を再興し、鎮座地を樋越神人村八王塚にして年々二月十一、長田狭田の式、併せて、抜穂の式、として古神明砂町に神田一反歩を有していた水田より献上した」と伝えられている。
 又、秋祭も十一月二十三日と決められ、現在も新嘗例祭として続けられている。

神明宮の鳥居の配置について
 第一鳥居は、武州賀美郡勅使川村字天神にあります。
   現在は、丹生神社になっています。
 第二鳥居は、玉村町南玉に礎石があります。
 第三鳥居は、現在の神明宮参道入口にあります。

重要無形文化財指定への経緯
 春鍬祭は、その伝統と祭事の内容が高く評価されて、
 昭和四十六年四月玉村町より、重要無形文化財の指定を受ける。平成十二年三月群馬県より、重要無形文化財の指定を受ける。平成十四年二月国の文化庁より重要無形文化財の指定を受ける。

 この度、神明宮本殿改修にあたり、神明宮の歴史を記し記念とする。
 平成二十三年一月二十三日
                                                          案内板より引用


 案内板の説明では、一の鳥居は現神川町丹生神社にあり、二の鳥居は玉村町南玉地区に礎石のみあり、三の鳥居だけが現樋越神明宮にあるということだ。

        
                            拝       殿
           
                             本      殿
  樋越神明宮が鎮座する玉村町の町名の「玉」という名にも何かしら曰くがありそうだ。この「玉」は武蔵国内にも「埼玉」「児玉」「玉井」等の地名や「玉敷」「前玉」「などの古社名など、昔からの由緒ある地名として県北を中心にして数多く存在する。実はこの樋越地区の近郊にも「南玉」(なんぎょく)地区があり、やはり「玉」で共通する地域である。樋越地区は利根川と利根川支流である藤川が合流する地域であり、ある説によると水に関連している地名というが、実はハッキリとは判明していないのが現状だ。

 また「樋越」の「樋」は「ヒ」と読み、本来の字は「火」と言っていたようだ。古事記には(熯)速日神を(樋)速日神とあり、熯(ひ)=樋であり、熯速日神は火をつかさどる神であることから、樋も火に関連した言葉であろう。つまり、「樋越」とは「火を起こす」という意味ともなり、川辺の砂鉄を製鉄する鍛冶集団がこの地にいたことを示す地名なのではあるまいか。

       社殿の左側奥にある境内社群        同右側にも境内社が磐座らしき石を挟み16社ある。
                       
                             境内の様子



拍手[0回]


角渕八幡神社

 安達氏は鎌倉時代幕府を支える有力御家人の一人で、藤原氏魚名流と称していた。 
 家祖である安達藤九郎盛長は平治元年(1160年)の平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した功労者の一人で、幕府成立後には上野奉行職、三河守護などを歴任する。頼朝死後剃髪・出家し「連西」と名乗ったが、頼家が将軍になると老臣の一人として幕政に加わっていたという。正治2年4月26日(1200年6月9日)に死去。享年66。生涯官職に就く事はなかった。
 安達氏の本来の氏は「足立氏」で、盛長晩年にこの「安達氏」と名乗ったという。
所在地    群馬県佐波郡玉村町角渕2075
御祭神    誉田別命
社  挌    不明
例  祭    4月15日(春季例祭) 7月第2土・日曜日(夏祭り)    
         10月15日(例大祭)

                            
  玉村八幡宮から国道354号に戻り、下新田交差点を右折し、群馬県道40号藤岡大胡線を南方向に進み、角渕交差点を左折するとすぐに角渕八幡宮が見えてくる。この角渕八幡神社は玉村八幡宮の元宮で、その創建は建久6年(1195)8月、源頼朝の家臣で上野奉行安達藤九郎盛長が鎌倉鶴岡八幡大神の別御霊(わけみたま)を勧請し奉斎したのに始まるという。
  角渕地域は利根川支流烏川のすぐ北側に位置し、水陸交通の要地で早くから開け、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれていて、安達藤九郎盛長がその地域の支配御家人に指示し、この地に勧請したものと考えられる。

        
鳥居から正面の社殿を撮影                鳥居の左隣にある案内板

角渕八幡宮
 
鎌倉時代の初め、建久4年(1193)源頼朝が那須野で狩りをした帰りに角渕で休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ているというので、後に奉行として上野国に入った足立盛長に命じて鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の分霊を勧請せしめたのが、角渕八幡宮のはじめといわれ、中世の戦火に焼かれるまでは、薬師堂をはじめ塔楼数棟、栄華をほこったといわれている。
 その後に建てられた社殿は、応永18年(1411)に関東管領畠山満家、永正4年(1507)に白井城主永尾憲景の家来対島入道が修理をした。
 後に、江戸時代の初め、関東郡代伊奈備前守忠次が滝川用水をひいて新田開発に成功し、慶長15年(1610)に荒廃した角渕八幡宮の社殿を玉村の上新田を下新田の境に移築修造し玉村八幡宮と名を改めまつった。
   現在の角渕八幡宮の本殿は、一間社流れ造りで、江戸時代後期の建造である。
                                                          案内板より引用

      拝殿の手前左側にある大神宮         大神宮の奥にある石祠二基、その右側にも八坂                                                                                                                                                                      社の石祠がある。
                                  
                             拝     殿

                             本      殿

  角淵八幡宮が鎮座する「角淵」という地名の由来は以下の通りだ。
 貞観(じょうがん)4年(862)の10月から翌11月にかけて天災や不吉なことが続いていた。そこで、国司は神官に命じて火雷神社(玉村町下之宮)において神事を執り行わせようとし、その際、副使としてこの地を治めていた武士那波八郎廣純(なわはちろうひろずみ)を同行させた。神官が、斎戒し注連を結んで四方を祈祷し、神前に幣帛を奉り、神鏡を捧げて祈祷を行っていた7日目、怪物が姿を現し、神鏡を奪おうとした。那波八郎廣純は刀を振ってその首を切り落とした。このとき、怪物の折れた角を川に投げ、後に淵になったところが、現在の玉村町「角渕」であり、切った手を捨てたところが玉村町「上之手」(神の手)であるという。
 この地域には蛇神伝説や龍神伝説が数多く存在する。「角淵」の「淵」も河川に関連する地名であることは明白で、利根川流域に存在する玉村町の地形から「那波八郎伝説」や多くの河川に関係する伝承・伝説が作られたのだろう。


 角渕八幡宮には庚申塚や水神や猿田彦大神等の石塔が非常に多い。写真左側には角渕八幡神社本殿修復記念碑がある。また社殿奥にはズラッと並んだ境内社が存在する(同右)。左から古峯神社(倭建命)、戸隠神社(天手力雄命)、熊野神社(伊邪那岐命、伊邪那美命、櫛御気野命)、石神社(布都御魂命)、稲荷神社(倉稲魂命)。

角渕八幡神社(角渕八幡宮)本殿修復記念碑
 当神社は玉村八幡宮の元宮です。元来角渕地区は水陸交通の要地で早くから開け、源頼朝が狩をして那須野から鎌倉へ帰る途中、角渕に休み、烏川の風景が鎌倉の由比ヶ浜に似ていた為、建久六年(1195)、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴岡八幡宮の別御霊を勧請したと伝えられています。
 八○○年以上の歴史の中で盛衰を繰り返して来ましたが村人は鎮守様として敬い、親しみ、守って来ました。
 現在の本殿は、氏子と近郷の崇敬者が発起人となり、天保二年(1831)に改築が為され、その後幾度か修復してきましたが近年、特に老朽化が進み調査の結果、歴史ある本殿を、末永く後世に伝える為には、銅板葺きの屋根や回廊等の大修理が必要で、工事を行うことが決定しました。
 玉村八幡宮の御力添えと、氏子(二○○世帯)を中心に角渕村民一同協力し、力を合わせ、平成二十二年十二月十五日無事竣工しました。
 平成二十三年十月吉日
                                                          記念碑より引用


                                                                                                  
                                                                                                           

拍手[1回]


堀口飯玉神社

701年(大宝元年)に制定された大宝令によれば、上野国は13郡が設置された。碓氷(うすい)・片岡(かたおか)・甘楽(かんら)・緑野(みどの)・那波(なは)・群馬(くるま)・吾妻(あがつま)・利根(とね)・勢多(せた)・佐位(さい)・新田(にふた)・山田(やまだ)・邑楽(おはらき)各郡である。その中に那波郡があり、この地域は現佐波郡玉村町、伊勢崎市の約西半分(旧利根川の河道(おおむね広瀬川と桃木川の中間)の西側)、前橋市の南部の一部の区域と推定される。
 伊勢崎市堀口町に鎮座する飯玉神社は、那波の総鎮守と言われ、韮川右岸の台地上に鎮座している。但し平安時代中期で延長5年(927年)に編集された延喜式神名帳にはこの社の名称は載っておらず、国内神名帳と言われる神祇官が作成した神名帳に対して、諸国の国主が作成した管国の神社とその神名・神階を記した帳簿の、その中の上野国神名帳・那波郡の中に「従三位 国玉明神」として記載されている。
所在地    群馬県伊勢崎市堀口472
御祭神    保食神・大国魂神   (配祀神)日本武命 火産霊命 大日靈命 菅原道真命
社  格    旧村社 那波総社
例  祭    10月17日 例大祭

       
 堀口飯玉神社は倭文神社を北上し群馬県道24号高崎伊勢崎線を伊勢崎市街地方向、つまり東方向に向かい、連取元町交差点を右折し、群馬県道18号伊勢崎本庄線を真っ直ぐ進むと約3㎞弱位で飯玉神社前交差点があり、その手前右側に堀口飯玉神社は県道沿いに鎮座している。神社の北側で裏手にあたる場所には整備されていないが十数台停められる駐車場あり、そこに停めて参拝を行った。
                      
                       交差点に面してある社号標石

             社号標石の右わきにある案内板                    一の鳥居 県道に沿って細長く社叢が広がる。

那波総社 飯玉神社
 祭神は保食命・大国魂命です。社伝によれば、安閑天皇の元年(534)、国主が丹波国(京都府)笹山から神霊を迎えてお祀りしたのが始まりといいます。寛平元年(889)、天災が続いたので国主の室町中将によって、豊年を祈って神社が建てられました。
 応仁(1467~1469)以来、田畑が荒れてしまい、農民が困っているのを憂い、領主那波氏が領地内に当社を総本山として、九十九の飯玉、飯福神社を分祀したといわれています。神社の行事として、ムギマキゴシンジと通称される神集祭があります。
 平成十八年三月
                                                             案内板より引用

 案内板に記されている那波氏とは藤原氏と大江氏の2系統があり、那波郡に先に入ったのは藤原秀郷の子孫の那波氏である。藤原秀郷の子孫で佐貫成綱の子・季弘を祖とする藤原流那波氏で、この一族は平安末期の源平合戦の最中で、元暦元年(1184年)那波広純が木曽義仲に組して戦死し、一族は衰亡する。その後藤原流那波氏に代わって那波郡を領したのが大江氏系の那波氏である。源頼朝の最大の助言者で、鎌倉幕府の重臣であり政所初代別当を務めた大江広元の子、大江宗元(政広)を祖とする。『系図纂要』では、藤姓那波氏の那波弘純の子・宗澄に子が無かったため、政弘は弘澄の娘婿となって那波氏を称したとする。その後宗元(政広)の子政茂は幕府の裁判機構を司る引付衆の四番方として活躍、大江流那波氏は広元以来の行政能力をもって、幕府内に一定の地位を築き上げたたようだ。
 その後鎌倉幕府滅亡から建武の新政における間の那波氏の動向は不明ながら、関東には後醍醐天皇の新政府の出先機関ともいえる鎌倉将軍府が置かれた。鎌倉府には将軍成良親王の身辺警固のために関東廂番が設置されたが、その三番方に那波左近将監政家の名がみえるところから、那波氏は鎌倉幕府滅亡時に際して北条得宗家と共に滅亡することなくうまく立ち回ったようだ。一時的に中先代の乱時に北条時行軍に加担し建武親政権に叛いて没落したが、室町期に入ると那波氏は鎌倉公方に付いて復権した。上杉禅秀の乱で禅秀軍の攻撃を受けた足利持氏の近臣のなかに那波掃部助がみえ、また惣領家6代目の那波上総介宗元は持氏の奉公衆として活動した。

 この那波氏は自身の領有地に飯玉神社を分詞して配置したことが案内板の内容から分かる。飯玉神社が特定地域にのみにある理由がこれによることだろうか。ところでこの案内板に登場する寛平元年の項の室町中将とは何者だろうか。何の脈略もなく突如登場したこの人物は一体何者だろうか。


    参道を過ぎると左側にある境内社 稲荷神社          鳥居の先にある稲荷神社拝殿
       正式名 十寸穂国笹稲荷神社

        十寸穂国笹稲荷神社内部             稲荷神社の左側にある聖徳太子石碑

 
     参道に戻り進むと右側にある八坂神社                     神楽殿
           
                             拝      殿
                       
                             本      殿

      拝殿正面左側にある板材の案内板         本殿の左側奥にある境内社 浅間神社か
祭神
 保食命 (別名 豊受大神)
 大國魂命(別名 大國主神)
 配祀神四柱
 境内末社 十四社ナリ
 二十七代安閑天皇元年鎮座せらる。三十七代孝元天皇御代国司奉幣せられる。寛平元巳酉年国司室町中将再建し同年宇多天皇神鏡を下賜給う。六十七代後一条天皇郡司に命じ神殿を改造。那波太郎広純此の地領するに依り氏神とし封内九十九個所に飯玉飯福を分祠す。尚天武天皇白鳳九年勅命に依り神事式を行う。是実に那波の神事又麦播神事と云うは当神社のことなり。式典は中根家を以て執り行うと伊勢崎風土記に有り。
                                                             案内板より引用

 那波氏は上野国那波郡に実在した在地豪族だが、鎌倉権五郎と共に有名な伝説上の人物として「那波八郎」がいる。
 「那波八郎」を語るに際してどうしても避けて通れない説話集がある。「神道集」だ。神道集 (しんとうしゅう)は、日本の中世の説話集・神道書。 安居院唱導教団の著作とされ、南北朝時代中期の文和・延文年間(1352~1361) に成立したとされている。全10巻で50話を収録。 関東など東国の 神社の縁起を中心としつつ、本地垂迹説に基づいた神仏に関する説話が載っている。その書物の巻八・第四十八には「上野国那波八郎大明神事」という章があって、那波氏の一族である那波八郎の古い伝説が語られている。

               
第四十八 上野国那波八郎大明神事
 
人皇四十九代光仁天皇の御代、上野国群馬郡の地頭は群馬大夫満行といった。 息子が八人いたが、八郎満胤は容貌美麗で才智に優れ、弓馬の術にも長じていたので、父の代理で都に出仕していた。 父満行は八郎を総領に立て、兄七人を脇地頭とした。
 父満行が亡くなり三回忌の後、八郎満胤は上京して三年間宮仕えに精勤し、帝から目代(国司代理)の職を授かった。 七人の兄は弟を妬み、八郎に夜討ちをかけて殺害し、屍骸を石の唐櫃に入れて高井郷にある蛇食池の中島の蛇塚の岩屋に投げ込んだ。それから三年後、満胤は諸の龍王や伊香保沼・赤城沼の龍神と親しくなり、その身は大蛇の姿となった。神通自在の身となった八郎は七人の兄を殺し、その一族妻子眷属まで生贄に取って殺した。
 帝は大いに驚いて岩屋に宣旨を下し、生贄を一年に一回だけにさせた。 大蛇は帝の宣旨に従い、当国に領地を持つ人々の間の輪番で、九月九日に高井の岩屋に生贄を捧げる事になった。
 それから二十余年が経ち、上野国甘楽郡尾幡庄の地頭・尾幡権守宗岡がその年の生贄の番に当たった。 宗岡には海津姫という十六歳の娘がいた。 宗岡は娘との別れを哀しみ、あてどもなくさまよい歩いていた。
 その頃、奥州に金を求める使者として、宮内判官宗光という人が都から下向して来た。 宗岡は宗光を自分の邸に迎えて歓待し、様々な遊戯を行った。 そして、三日間の酒宴の後に、宮内判官を尾幡姫(海津姫)に引き合わせた。宗光は尾幡姫と夫婦の契りを深く結んだ。八月になり、尾幡姫が嘆き悲しんでいるので、宗光はその理由を尋ねた。 宗岡は尾幡姫が今年の大蛇の生贄に決められている事を話した。宗光は姫の身代わりになる事を申し出た。 そして夫婦で持仏堂に籠り、ひたすら法華経を読誦して九月八日になった。宗光は高井の岩屋の贄棚に上ると、北向きに坐って法華経の読誦を始めた。やがて、石の戸を押し開けて大蛇が恐ろしい姿を現したが、宗光は少しも恐れずに読誦し続けた。宗光が経を読み終わると、大蛇は首を地面につけて 「あなたの読経を聴聞して執念が消え失せました。今後は生贄を求めません。法華経の功徳で神に成る事ができるので、この国の人々に利益を施しましょう」と云い、岩屋の中に入った。
 その夜、震動雷鳴して大雨が降り、大蛇は下村で八郎大明神として顕れた。
 この顛末を帝に奏上したところ、帝は大いに喜び、奥州への使者は別の者を下らせる事にして、宗光を上野の国司に任じた。 宗光は二十六歳で中納言中将、三十一歳で大納言右大将に昇進した。尾幡権守宗岡は目代となった。(中略)


 群馬県高崎市倉賀野地区に鎮座する倉賀野神社は旧社名を飯玉神社、又の名を国玉神社と言い、飯玉様(いいだまさま)として信仰をあつめている社だが、その社には古くから「飯玉縁起」と言われる巻物が存在し、その内容も大体「上野国那波八郎大明神事」と似通っている。

 ただ群馬県周辺に残る八郎伝説は、細部が『神道集』と異なっている事も事実である。玉村町の火雷神社の八郎伝説や埼玉県本庄市小島地区に鎮座する唐鈴神社では魔物を退治したのが那波八郎であり、ここでは伝承の逆転現象が起きている。また埼玉県本庄市都島地区に鎮座する角折神社の案内板では、魔物を退治したのは都から来た剛毅な公卿と書かれていて、またこの角折神社の境内社である八郎神社の祭神は同じ八郎でも「那波八郎」ではなく「鎮西八郎」つまり源為朝となっている。伝説、伝承が周辺地域に広がるにつれ細部に微妙なズレが生じることは今も昔も変わりはない。いわゆる伝承のドーナツ化現象のひとつであろうか。

 またこの「神道集」に収められている伝説はなぜか上野国の説話が非常に多い。10巻50話中8話も収録されている。東国中心に記載されているとはいえ、巻6までは日本全国の有名な古社・名社の説話が中心で、末尾の巻7、巻8の説話計13話中上野国6話が集中して収録されている。日本全国には伝承・説話の類の話は多く存在するのに、敢えて上野国の説話を多数編集した「神道集」の編集者たち・・・・・・どのような意図があったのだろうか。
                                                                                                     

拍手[1回]