古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

生品神社

 生品神社が鎮座する群馬県太田市は、関東地方の北部、群馬県南東部(東毛)にある人口約22万人の市で、群馬県南東部の関東平野北部に位置し(鶴の首部分に位置する)、南に利根川、北東に渡良瀬川に挟まれた地域にある。
 
群馬県みどり市笠懸町にある旧石器時代の 遺跡である岩宿遺跡の発見でも分かる通り、古代からこの地域において豊かな暮らしが営まれてきた。また太田市付近一帯はは関東屈指の古墳存在地域で、国指定史跡に指定されている天神山古墳や女体山古墳をはじめ確認されているだけで800基以上の古墳が存在している。特に出土した人物や動物、建物などを模った形象埴輪の精巧性や美術性は他の地域を越えるものとして挂甲武人埴輪が国宝に塚廻り古墳群出土埴輪は国指定重要文化財に指定されている。平安時代末期になると新田一族が領主となり、周辺地域を開発した地であることから「新田庄」と呼ばれていた。

 
また太田市天良町にある天良七堂遺跡(てんらしちどういせき)は、平成19年に確認調査が行われ、そこで発見された 新田郡衙の郡庁跡 が、新たに 「 上野国新田郡庁跡 」 として国史跡に指定(平成20年7月28日)された。その構造は、50mにも及ぶ長大な掘立柱建物を東・西・南・北に「口」の字状に配置し、周囲には柵をめぐらせ、全体を正方形に近い形に造っており、東と西と北に配置された建物については、数回の建替えが確認されているという。通常の郡庁の大きさは、四角に囲まれた一辺が50mほどの大きさであるのに対し、新田郡衙の郡庁は一辺90mを越す郡庁となり、この規模は現在のところ郡庁としては全国で一番の大きさということだ。
所在地   群馬県太田市新田市野井町1923
主祭神   大穴牟遅神(別名大国主命) 
               
品陀和気命 建御名方神 他二十二柱(一説に平将門を祀っているという伝説がある
社  格   旧県社
例  祭  5月 8日 鏑矢祭
         
 生品神社は旧新田町役場、現在の太田市役所新田総合支所の北側約2kmに位置し、群馬県道322号新田市野井線を北上し、しばらく行くと左前方に、こんもりとした林と朱の鳥居が見えてくる。駐車場は神社正面入り口と神社裏側にあり、今回は正面の駐車場を利用した。
            
  
               生品神社駐車場の南側に建てられている新田義貞公銅像
                        
                                                          生品神社一の鳥居
 一の鳥居の左側には「生品神社境内」の案内板があり、また鳥居を過ぎて参道を進むとすぐ左側に社務所、前面には新田家の家紋の入った神橋がある。その神橋の先には新田義貞公挙兵六百年記念碑がある。神橋の先が道路で分断され、その先の二の鳥居から生品神社境内となるようだ。 

                      
                                            生品神社一の鳥居の左側にある案内板

 国指定史跡 新田庄遺跡  生品神社境内     
 所在地 群馬県新田郡新田町市野井640他   指定 平成12年11月1日

 新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて、元弘三年(1333)五月八日、鎌倉幕府(北条氏)討伐の旗挙げをしたところが生品神社境内です。昭和九年に建武の中興六百年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として史跡に指定されましたが、平成十二年に「新田荘遺跡 生品神社境内」として、面積を広げて指定されました。
 義貞が旗挙げを行った時はわずか百五十騎でしたが、越後の新田一族などが加わり、たちまち数千騎となって、十五日間で鎌倉幕府を攻め落としたといわれています。
 神社境内には、旗挙げ塚、床几塚があり、拝殿の前には義貞が旗挙げの時に軍旗を掲げたと伝えられるクヌギの木が保存されています。
 現在では、義貞挙兵の故事にならい、毎年五月八日、氏子によって鏑矢祭が行われています。
 平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と書かれていることから、神社は平安時代には存在していたと推定されます。(中略)
                                                           案内板より引用
             

 平安、鎌倉時代と新田氏との繋がりもあり、一の鳥居の先にある神橋には新田氏の家紋(大中黒)がついている。新田義貞が挙兵の旗揚げをした重要な地でもあり、この社の所々に重い歴史を感じさせてくれる不思議な空間があるような感覚だ。
             
 道を隔ててその先には二の鳥居がある。一の鳥居から二の鳥居までは木々も多いことは多いが、所々強い直射日光を感じ、明るい空間も見られたが、二の鳥居から先は全体的にほの暗く、湿度も多そうで重い感じだ(丁度参拝当日は雨が降っていたが、そのような天気でなくてもこの雰囲気はいつでも同じだと思う)。良く言えば厳粛な雰囲気がある、というべきか。

      二の鳥居を抜けると左側に手水舎          手水舎を過ぎるとすぐ先には三の鳥居
            
   三の鳥居から拝殿に向かう途中、右側に「神代木」と言われる御神木がある。木種はクヌギ。新田義貞が鎌倉幕府に対して討幕の挙兵の際に大中黒の旗をこの木に掲げ戦勝を祈願したといわれ、かなりの巨木、老木であったが、明治37年6月9日に倒れた。現在保存のため薫蒸処理しポリウレタン系合成樹脂加工により強化修復をし最後にシリコン剤塗布を施して大切に保存されている。

      参道左側で手水舎の先にある神楽殿             生品神社社殿手前左側にある石祠群。詳細不明
                         
                             拝      殿
 生品神社は、平安時代に編集された「上野国神名帳」に「新田郡従三位生階明神」と記されていることから、平安時代に創建されたものではないかと考えられている。また当社は、1333年(元弘3年)新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて鎌倉幕府討伐の旗揚げをした場所といわれ、旗揚げをした時にはわずか150騎だったものが、のちに越後の新田一族などが加わって数千騎になり、15日間で鎌倉幕府を倒すことができたといわれている。
 
 1934年(昭和9年)建武中興600年を記念して「生品神社境内 新田義貞挙兵伝説地」として国の史跡に指定され、さらに2000年(平成12年)には「新田荘遺跡 生品神社境内」として面積を広げて指定されている。
                                                                     

-全国神社名鑑由緒より-

 天喜年中、源義家奥羽征討の際戦勝祈願をしたと伝えられる。元弘三年五月新田義貞鎌倉に攻にあたり当社前に義旗を挙げたことは太平記の記す所であり、古くは生階と称し、新田郡内には同名の神社が多く、当社を本宮とし、古来産土神として崇敬が篤い。昭和九年三月新田義貞挙兵地として史跡に指定。明治以後県社に列した。


        
                             本      殿

         拝殿に飾られた社号額             本殿の奥にある富士嶽浅間大神の石神
                                         後ろには稲荷神社の石祠

生品神社は新田庄内にあって新田氏と関係が深い社である。

 新田氏(清和源氏 義国流)

 新田氏の祖義重は、八幡太郎義家の三男義国の長子であり、義重が新田氏、弟の義康は下野国足利に拠って足利氏の祖となった。
 治承四年源頼朝が挙兵したとき、はじめ義重は参加を拒んだが、結局は頼朝に帰属した。このためであろう、以来、新田氏は、足利氏に比べて鎌倉幕府にあって不遇の立場にあった。義重の三男の義兼は、新田庄内二十七郷を相伝して新田の本家を継いだ。
 義重の長男義範は上野国多胡郡山名郷に分家して山名氏となり、二男義俊は同国碓井郡里見郷に分家し、義俊の孫義基が里見氏、義継が大島氏、時成が烏山氏を称した。大島義継の子氏継は大井田氏を称して越後の妻有庄に発展した。四男義季は新田郡世良田村の得川に分家し、その子の頼氏は世良田を称した。また五男の経義は額戸氏を名乗っている。
 鎌倉時代の中期になると、義兼の孫政義が大番役で在京中、出家したため、所領を没収され、代わって庶流の岩松・世良田氏が栄えた。しかし、その世良田氏で頼氏が佐渡に流されたため、宗家が大館・堀口などの分家を出して勢を回復し、義貞に至っておおいに名を上げた。
 義貞は元弘三年(1333)鎌倉に攻め入って北条氏を滅ぼし、建武政権下で、武者所頭人・越後守護などに任じられた。しかし、足利尊氏が反旗を翻すにおよび、播磨国において赤松氏の討伐に失敗し、湊川では楠木正成と足利尊氏を迎えうったが敗戦、ついに越前藤島において敗死してしまった。義貞の弟脇屋義助は、義貞の死後、伊予に赴いて奮戦し、義貞の子義興・義宗らも南朝方として各地に転戦したが、相次いで戦死し、嫡流は滅んだ。
 これに対して、有力な庶流家である山名・里見および岩松の諸氏は終始足利方に属し、新田庄の支配権は岩松氏に帰した。山名氏は室町幕府の要職を占め、里見氏は房総地方の豪族として発展した


        
                生品神社駐車場の東側にある「床几塚」

 南北朝時代は日本全国で華々しく散っていった新田義貞をはじめとする新田嫡流家に対して、同族であり宿敵でもある足利尊氏は室町幕府を築きあげる。渡良瀬川を挟んでほぼ隣接していた足利氏と新田氏には平氏のように一族皆仲良くして、共に繁栄しようなどという美しい同族愛のような感情が微塵もなかったのだろうか。私の母方の実家は深谷市横瀬地区に在住で、鎌倉時代新田氏の所領内であったらしく、南北朝の戦さでも度々新田嫡流家と共にしていたらしい。現在の足利市の鑁阿寺の繁栄に対して、この生品神社の古ぼけて寂れた社の印象はどうしても拭いきれないものがある、という感情の根底には案外この先祖の血から来ているのではないかと、ふと頭をよぎった次第である。

       
                   


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境伊与久雷電神社

 群馬県伊勢崎市境伊与久地区には十三宝塚遺跡(じゅうさんぼうつかいせき)と言われる奈良~平安時代の地方官衙 (役所)か古代寺院跡がある。利根川支流の早川と粕川の中間の伊勢崎台地上にある。この伊勢崎台地は地形的には赤城山麓の南方末端に形成された台地と言われている。遺跡は、北・西・南を大溝で画した東西約180m、南北約250mの範囲をもち、全体に不整形の方形を呈するようで、奈良時代から平安時代におよぶ佐位郡衙と推定する説がある。十三宝塚遺跡は昭和63年1月11日国指定史跡に指定された。
 この十三宝塚遺跡の南側には境伊与久雷電神社が鎮座する。

所在地    群馬県伊勢崎市境伊与久3581
御祭神    大雷命
        (配 祀)  高於加美命 火産霊命 菅原道真命 天照大神保食神 他
社  格    旧郷社
例  祭    3月25日 例大祭  10月25日秋季例祭

        
 境伊与久雷電神社は、下渕名大国神社から国道17号上武バイパス、大国神社東交差点を西方向、つまり左折して群馬県道292号伊勢崎新田上江田線に入りそのまままっすぐ進み、約2㎞先右側にあるコンビニエンスの交差点を右折し、そのまままっすぐ進むと左側に一面緑に囲まれた社叢が見える。
 ちなみに社殿の北から西に掛けては「伊与久の森」として整備され、中には遊歩道などがあり、散策も楽しめる。参道の右側には社務所があり、そこには舗装された駐車場もあり、数台駐車可能だ。
            
                       道路沿いにある鳥居と社号標石

   鳥居正面から参道を撮影。鳥居がやたらと多い。     社号標石の左側にある「雷電神社古墳」の案内板

境町指定史跡 雷電神社古墳
 昭和五十二年三月十一日指定
 雷電神社古墳は伊与久地区の北方に位置し粕川と早川の支流である中掘に挟まれた低台地上に築造された古墳であり、本古墳北側には十三宝塚遺跡が広がる。「上毛古墳綜覧」によれば、本古墳の周辺には多数の古墳があったとされるが、現在では殆ど消滅している。従って伊与久地区の古墳を知る上で貴重な古墳である。
 本古墳の形態は主軸を東西にとり、前方部を東に向ける全長約五十メートル程の前方後円墳と考えられる。現在ではくびれ部なども明確でない程に削平・変形されてしまっているが、西側には後円部の名残がわずかに認められる。遺骸を葬った主体部は南に開口する両袖型横穴式石室であり、現在の神社本殿の真下あたりと考えられる。現在では補修が著しいが、比較的旧状をとどめているのは玄室部で、長さ四・七メートル、奥壁下幅一・三五メートル、中央部幅二・一二メートル、入口幅一・一五メートルとやや胴部の張った形である。この石室を構成する石材は榛名山系の二ツ岳が噴火した際に噴出したとされる安山岩の一種であり、その加工技術・石材の積み方は精巧である。
 明治年間に発掘されたとされるが、遺物は殆ど残っておらず、石室の形態、石材の加工技術などから七世紀後半の築造と考えられる。
                                                          案内板より引用
                     
                                                参道右側には御神木の銀杏の大木

         参道左側にある神楽殿                参道石段上に社殿は鎮座している。

 境伊与久雷電神社は鎌倉時代、源頼朝の重臣で当地に領地を持っていた三浦義澄が建保6年(1215年)に創建したと伝えられているが、上野国神名帳に「従四位上高於神明神」がこの社とも言われていて、どちらが本当の創建時期なのか、その判別が難しい。しかし上野国神名帳のほうが事実ならば10世紀前の創建となり、かなりの歴史のある古社となろう。また元弘3年(1333年)には、新田義貞が鎌倉攻を祈念して社殿の改築を行ったと伝えられている。
 境内には七世紀後半の築造とされる雷電神社古墳(案内板では50m程の前方後円墳)があり、社殿はその上に建てられている。
            
                             拝     殿
                       
                             本     殿 
 雷電神社
 当社は順徳天皇の建保六年(1215)三月二十五日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと伝えられる。上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記されるのが当社である。後醍醐天皇の元弘三年(1333)三月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、戦勝祈願祭を行った。正親町天皇の永禄三年(1560)には、赤石左衛門尉・同又次郎の領有となるや領土の安全を祈り、祭供料と神領を寄進した。明正天皇の寛永十四年(1637)、伊勢崎城主河内守忠行は社殿を修覆し祭米を奉り、霊元天皇の延宝九年(1681)には酒井下野守忠寛が領主となるや社殿を修理した。また後桜町天皇の明和四年(1767)にいたり、酒井駿河守忠温が社殿を修覆して祈雨の祭典を行った。このように江戸時代にあっては領主酒井家の崇敬とくに篤く、累世修理や祭米・奉幣を得てきたが、明治維新後は郷土の鎮守神として氏子の尊崇するところとなり、明治四年には村社に列せられ、同四十年には境内諸末社を合祀して今日に至る。
                                                          案内書より引用
雷電神社
 建保三年赤石城主三浦之介義澄の創建。新田義貞社殿を修繕し戦勝祈願を行ない代々崇敬厚く、永禄三年赤石又次郎領土の安全を祈り、祭供料・神領を寄進。のち代々の領主社殿を修理し祈雨の祭典を行い奉幣があった。明治以後郷土の氏神として氏子の崇敬厚く、雷災除の神として信仰が厚い。

                                                   佐波郡神社誌由緒より引用

      社殿の左側にある「おみこし古墳」       社殿の奥から右側にかけてずらっと並んだ石祠群
 中を覗くと穴が開いていて社殿方向に続いている。
           
 社務所の左側にはガラス越しに神興を展示している。また神興が展示している手前には伊与久雷電神社の鎮座地、祭神、御開帳、由緒、雷除け信仰、祭日、境内神社等が記載されている掲示板がある。

雷電神社
一 鎮座地   佐波郡境町大字伊与久三、五八一番地(現伊勢崎市境伊与久3581)
二 祭神     主祭神  大雷命      
          配祀神  高於加美命  火産霊命  罔象女命  建御名方命  大日孁命  保食命
                    倉稲魂命  菅原道真命  誉田別命  櫛御気野命    最上命
                                    大物主命  素盞鳴命  日本武命
【御開帳】
 六十年に一度行われる大祭で、以前は四十年に一度、御神体を親しく信者に拝観させる祭事である。大祭は正月と四月に行なうが、御開帳は正月二十五日より数日間行なうのを例とした。この日に備えて、各地区総出で趣向を凝らした飾りものを準備する。ちなみに大正十五年(1926)一月二十五日から二月三日までの十日間執行された御開帳では、飾りものを納めた小屋の間口十間(約18.2m)、奥行七間(約12.7m)、高さ五丈五尺(約16.7m)の巨大な竜虎が人の目を奪ったと伝えられている。最近の御開帳は、昭和六十一年(1986)正月に執行されている。

三 由緒
 当社は順徳天皇の建保六年(1215)三月二十五日に、赤石城主(伊勢崎)三浦之介義澄が創建したと伝えられる。上野国神名帳に「従四位上高於神明神」と記されるのが当社である。後醍醐天皇の元弘三年(1333)三月、新田三衛門佐義貞が鎌倉追討の際に社殿を修理し、戦勝祈願祭を行った。正親町天皇の永禄三年(1560)には、赤石左衛門尉・同又次郎の領有となるや領土の安全を祈り、祭供料と神領を寄進した。明正天皇の寛永十四年(1637)、伊勢崎城主河内守忠行は社殿を修覆し祭米を奉り、霊元天皇の延宝九年(1681)には酒井下野守忠寛が領主となるや社殿を修理した。また後桜町天皇の明和四年(1767)にいたり、酒井駿河守忠温が社殿を修覆して祈雨の祭典を行った。このように江戸時代にあっては領主酒井家の崇敬とくに篤く、累世修理や祭米・奉幣を得てきたが、明治維新後は郷土の鎮守神として氏子の尊崇するところとなり、明治四年(1871)には村社に列せられ、同四十年(1907)には境内諸末社を合祀して今日に至る。

【雷除け信仰】
 天正元年(1573)正月二十五日の午の刻(正午)、雷鳴の激しく天地も揺らぐかと思う折から、境内の神木に落雷があった。その破裂した神木の中央から一条の光を発していたので、村民がひどく狼狽恐怖し、村の修験者須田峯ノ坊がこれを窺うと一寸八分(約5.45cm)の黄金像が現れた。この像は、地頭五十久弾正の守り神として祭られ、神徳弘く悪疫災難を救済し、殊に雷鳴を恐怖する者がこの神を信じれば恐怖の念が無くなるといわれた。また、これ以来は境内の老杉の樹皮をはぎ取り、雷除けの護符とする風が生じたという。この信仰に関連して、夕立除けの信仰に基づいた太々講という講組織が現在もある。果たしていつごろから始まったのかは定かでは無いが、遠くは埼玉県朝霞市や群馬県利根郡にも構員がおり、各地で三人講・五人講と称し、三月二十五日の例大祭の日には今でも多数の構員が参詣する。当日は専用の受け付けが設けられ、記名を済ませた順に御神札や御守を受けていかれる。この講とは別に、時世を反映してか、十年程前から電力関係者やゴルフ場関係の人々が参拝し、雷除けの祈祷を受けていかれるようになった。
四 祭日
  一月二十五日……新年祭
  二月二十五日……祈年祭
  三月二十五日……例大祭
  七月二十五日……夏祭り
  十月二十五日……秋季例祭
五 境内神社
   衣笠神社 八幡神社 秋葉神社 飯福神社 神明神社 熊野神社 琴平神社 阿夫利神社 八坂神
   社 水神社 三峯神社 天神社 疱瘡神社 諏訪神社(中略) 

               
                      社務所の西側に広がる「伊与久の森」

                                                                                                            
                                                                                                  

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玉村八幡神社

 群馬県玉村町は県の南部、利根川と烏川の間にあり、町域は関東平野の北西部に位置する。地形はほぼ平坦。東は伊勢崎市、南は埼玉県、西は高崎市、北は前橋市にそれぞれ隣接している。古代より点在している古墳群に見えるように、東国上毛にあっていち早く開けたところで、江戸時代には日光例幣使街道の主要な宿場であったため、五料宿には関所をはじめ問屋や河岸もあり、交通の要衝として栄えていたという。
 ところでこの玉村町には町名の由来となる「龍の玉伝説」と言われる地名伝説がある。

 
天慶(てんぎょう)年間(938~47)ある土豪が、沼田(のんだ)(現在の伊勢崎市柴町・八斗島町、玉村町五料地域)の庄の美しい娘を平将門に差し出すことを企てた。この企みを知った娘の父親である地頭は、娘を娘と相思相愛の仲にあった錦野の里(現玉村町域)の若者のもとへ走らせた。しかし、娘は土豪の追っ手に錦野の里を流れる矢川のほとりに追い込まれ、ついに矢川に身を投げた。このとき、駆けつけた若者も同じく矢川に身を投げた。
 
その後、この川に光る二つの碧玉(へきぎょく)が漂うのを見た村人は、娘が「龍人」の化身で、玉は「龍人のあぎと(あご)にある玉の精」と考え、この玉を拾い上げ、近戸(ちかど)大明神(現玉村町福島と南玉の間にあった神社)として祀った。近戸大明神は矢川の氾濫によりたびたび社殿を移していたが、今から500~600年前、利根川の洪水の中に龍神が現れ、近戸大明神に竜巻を起こし、祀ってあった碧玉を一つ持ち去ってしまった。そこで、村人は「別院 玉龍山」を設け、残った碧玉を二重の箱におさめ祀った。
 
しかし、その後も洪水がよく起こったため、新たに新田村(上新田・下新田)をつくった。龍の玉によりできた村であるため、玉村と呼ぶようになった。
 
現在、満福寺(玉村町福島)に碧玉が入っているといわれる黒塗りの二重の箱が伝わるが、見ると失明するといわれ、まだ誰も見たことがない。

 そして龍の玉のために出来た村から玉村と呼ぶようになったとされている。

所在地    群馬県佐波郡玉村町大字下新田1
御祭神    
誉田別命 気長足比売命 比咩神 外十五柱
社  挌    旧県社
例  祭    4月15日 春季例祭、太々講祭典  10月16日 例大祭

           
 玉村八幡宮は玉村町役場の西側で国道345号、別名日光例幣使街道沿い、玉村高校と玉村小学校の間に鎮座している。国道沿いに一の鳥居があり、そこから北へ参道沿いに駐車場があり、自動車は、数十台分は駐車可能のようだ。ちなみに一の鳥居は番地である下新田と上新田の境目に建てられているとのことだ。
                
                                                                  一の鳥居
 一の鳥居を越えてから現れるのが「随神門」で、見上げれば美しい天井絵があった。この随神門は圧巻で一見の価値がある。慶応元年(1865年)の建造で入母屋造楼門。

                              
                              随神門
               
                        綺麗に整備された参道と境内

 随神門を潜り、参道を歩くと右側に社務所。左側に猿田彦神社・淡島神社(写真左)がある。こちらでは人形神社となぜか加恵瑠(カエル)神社とも称されているようだ。この猿田彦神社・淡島神社の先には手水舎(同右)がある。
                   
                               御神木
  猿田彦神社・淡島神社と手水舎の間に聳え立つ。通称「夫婦楠木」と呼ばれ、家内安全・夫婦円満・縁結びまた厄除開運の御利益が授かると伝えられている。
               
                            二の鳥居と中門
                            
                             拝     殿
  国指定重要文化財本殿・弊殿と繋がっており、祭典やご祈願などで、氏子崇敬者が参拝する建造物で、建造時代は、建築の各種特徴からみて、十八世紀末ごろと推定される。造りは入母屋造で、以前は、棟札を見る限り、檜皮茸の屋根であったが、現在は銅板一文字茸。

玉村八幡宮由緒書・玉村八幡宮由緒碑

 
当社は鎌倉初期の建久六年(1195)源頼朝公によって、玉村町角淵の地に創建奉斎された角淵八幡宮を本宮とする。口碑によれば、源頼朝公が三原へ赴く途次この地に休息し、鳥川の地形が鎌倉の由比ヶ浜に似ていたために、上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請奉安せしめたという。以来、関東管領畠山満家・白井城主長尾左衛門尉憲景等による再建修造がなされた。
 江戸時代の初めには、関東郡代伊奈備前守忠次が当地一帯の新田開発に際して、一大事業の成就を神前に祈り、慶長十五年(1610)無事竣工をみるに及び、神助の報賽と玉村鎮守のため角淵八幡宮本殿を上・下新田境の此地に移築修造した。これが現在の玉村八幡宮である。慶安二年(1649)には幕府より朱印地三十石を寄進され、また歴代の前橋藩主の月詣を得ると共に、数次の修造がなされた。このように武門武将の崇敬を得たばかりでなく、正保三年(1646)日光例幣使街道開設後は、当地が第一の宿場として栄えるにつれ、道中安全や開運招福を願う一般庶民の崇敬をも集めることとなり、以来「玉の里の八幡さま」として親しまれる。また古来より特殊信仰として、いぬ・い年生まれの守り神という戌亥八幡信仰があり、その御神徳は今も尚おおいに発揚されるところである。
                                                                                                           玉村八幡宮 案内板より引用
                          
                             本     殿

 玉村八幡宮は、建久6年(1195)、鎌倉幕府初代将軍源頼朝が上野奉行安達藤九郎盛長に命じ、鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を玉村町角淵に勧請したことが創始の起源と伝えられている。以来、開運招福、一門繁栄を願う武家の尊崇を集め、江戸時代に至っては日光例幣使街道が開設されると玉村宿の鎮守社として一般庶民からも広く信仰された。玉村八幡神社本殿は室町時代の建築様式を遺す建造物として国指定重要文化財に指定されている。

 現在は幣殿・拝殿が併設され、本殿正面が幣殿に取り込まれ権現造に似た形態をとっているが、もとは独立した本殿だったという。これは向拝柱に残る浜床痕跡や風食跡、本殿正面と幣殿との取り付き仕口などからも明らかで、 幣殿・拝殿の建造に伴い、浜床が撤去され幣殿と一連の床が張られている。明和8年(1771)に内陣の天井を高くし、火燈窓を取り付けたことにより、現状とほぼ同じ形態となった。

 三間社流造、柿(こけら)葺で南向き。建物全体は漆彩色で華麗な造りとなっている。


              神楽殿                 社殿の左側には稲荷神社、写真には入りきら
                                     なかったが右に古峰神社が鎮座している。

      社殿の左側には国魂神社が鎮座       社殿の右側へ進むと小さな朱の橋があり、弁財天が
                                                                                                   祀られている。
  
            竹内勇水句碑                        石燈籠の案内板

 町文化財 竹内勇水句碑
 啼きすてて 思いなげなる雉かな
 句意は、けんけんという雉子の短い鳴き声のさらりとしたようなさっぱりした心境を、この声に託したものであります。
 竹内勇水は、江戸時代中期より後期の俳人。享保十三年(1728)生まれ、下新田の人です。名は徳往(のりあき)、通称源右衛門、屋号を岸屋と云い代々宿役人でした。江戸時代の涼袋と交渉をもち子弟も多く那波俳壇を代表する俳人でした。また、書にも巧みで玉村八幡宮境内の芭蕉十六夜塚や自句の碑にも彼の筆跡が見られます。
 文化九年(1812)没、八十五才、墓は神楽寺東墓地にあります。
 平成八年十二月
                                                          案内板より引用

 玉村八幡宮が鎮座する玉村町は国道354号線が町の南北を分けるように走っているが、この国道354号線は江戸時代には日光例幣使街道という名称の街道であり、宿場町として当時大変賑わいのある町だったようだ。

日光例幣使街道

  
日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、徳川家康の没後、徳川幕府は朝廷に幣帛(へいはく)の奉納を要求。そこで朝廷は正保3年(1646年)から日光東照宮に勅使 (例幣使) を派遣するようになった。このために整備された道が日光東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道を日光例幣使街道と言い、中山道の倉賀野町を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。なお、楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と共通である。最初に行った正保3年(1646年)以降、毎年奉幣使が派遣されるようになり、日光例幣使の制度が定着。慶応3年(1867)まで221回、一度も途切れることなく続いていた。

 現在、栃木県日光市から鹿沼市、栃木市、佐野市、下都賀郡岩倉町、佐野市、足利市、群馬県太田市、伊勢崎市、高崎市に至る路線が「日光例幣使街道」または「例幣使街道」と呼ばれている。特に日光市から鹿沼市にかけての区間には日光杉並木が現存する。
                                                                                                                                                                                      

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板倉雷電神社

 雷電神社が鎮座する群馬県板倉町は、関東平野の中央、群馬県の最東南端にあり、埼玉県と栃木県の県境を接している。町の面積は約42平方キロメートル、人口約1万6,000人程の農村地域とも言うべき町である。群馬県は丁度鶴が舞っている姿に似ているところから「鶴舞う形の群馬県」と形容され、そして板倉町はその口ばしの部分を占める県の最東端の町であり、栃木、埼玉、茨城県に接する県境の町でもある。
 板倉町の南境には我が国最大の流域面積を誇る利根川が流れ、北境には鉱毒問題で有名な渡良瀬川が流れこんでいる。またかつては板倉沼など大小の池沼が散在した低湿地帯町であり、このため昔から水の恩恵を受けてきた反面、夏の増水期にはしばしば洪水氾濫に苦しめられてきた洪水常習地帯で、水場とも言われてきたという。時の明治政府による渡良瀬川遊水池の設置、戦後の排水施設の整備によつて現在群馬の穀倉になっている。

 この地帯は律令時代「邑楽(おはらぎ)郡」という名称で、『和名抄』は「於波良支」と訓じている。この「おはらぎ」は、
  (1)「オ(接頭語)・ハラ(原)・ギ(場所を示す接尾語)
  (2)「オハ(崖地)・ラ・ギ(ともに場所を示す接尾語)」
 の意とする説がある。

所在地    群馬県邑楽郡板倉町板倉2334
御祭神    火雷大神 大雷大神 別雷大神
社  挌    旧郷社
創  建
    推古天皇6年(598年)
    
例  祭    5月1日~5日(雷電大祭)

             
 雷電神社は群馬県板倉町、国道354号から板倉交差点を左折し、群馬県道364号除川板倉線を北上すると右側に板倉町役場が見える。この役場をちょっと北へ進んだところに社は鎮座する。駐車場は神社東側に専用の大きい駐車場がある。但しこの駐車場は本殿の近くのため(駐車場から本殿が丸見え)参拝のルールを重んじる人ならば駐車場から一端南方向に迂回して、なるべく社内に入らず一の鳥居に向かったほうがいいと思うが、初めての参拝のため駐車場から境内に入ってしまい、寿老神が祀られている参道の途中ルートから一の鳥居に戻ることになった。
 
創建は社伝によると推古天皇6年(598年)で、当時は伊奈良(いなら) の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地に、聖徳太子が神の声を聞き、祠(ほこら)を設けてその神を祀ったものとされている。ただし、これを後世の付会であるとする説もある。

   一の鳥居 参道の左右には飲食店が数軒あり、       二の鳥居から見た雷電神社 拝殿
         鯰料理を扱っているようだ。
        
          「雷電神社総本宮」と彫られた石碑       二の鳥居に左側にある由来書の看板

雷電神社 御由来
 御祭神は火雷大神、大雷大神、別雷大神で、推古天皇6年(598)聖徳太子が天の神の声を聞いて、伊奈良の沼に浮かぶ小島に祠を設け、天の神をお祀りしたのが最初とされています。関東一帯の雷電神社の総本宮で、館林藩主・徳川綱吉公が延宝2年(1674年)に社殿を再建。以来、左三つ巴の紋章に併せ徳川家の三つ葉葵の紋章が使われている。現在の社殿は天保6年(1835年)の造営。左甚五郎10代目名人彫物師・石原常八の華麗な彫刻が装飾されたこの時代にしか見られない名建築である。
                                                       由来書より一部掲載
           
                                         質実・剛健の形容が似合う雷電神社・拝殿

 主祭神として火雷大神・大雷大神・別雷大神の三神をまつり、菅原道真公を配祀する。
 創建は、聖徳太子の手による、と書いたが、初めて社殿を建てたのは、坂上田村麻呂といわれる。雷の神の化身・雷電童子に窮地を救われたことを謝しての建立であったという。その後、雷や水害の多い土地柄のため、たびたび社殿が損なわれたが、江戸時代になり、のちに五代将軍となる館林藩主・徳川綱吉の崇敬を受けるなどした(その縁で、葵の御紋の使用が許された。現在もその名残りを社伝に見ることができる)。
 現在の本社社殿は天保6年の造営、群馬県指定重要文化財である。
           
                            豪華絢爛な本殿

 古くから雷の被害が多い土地であり、また暴れ川で度々流路を変えた渡良瀬川と利根川との間にあって度々火災や水害に見舞われたが、延宝2年(1674年)、当地を治めていた館林藩の藩主であった徳川綱吉が本社社殿を再建し(社殿に徳川家の三ツ葉葵の紋章を使うことを許された)、後に彼が長じて徳川幕府の第5代将軍となるに及んで、次第に繁栄するようになった。現在の本社社殿は天保6年(1835年)、奥社社殿は慶応4年(1868年)の造営である。本社社殿には左甚五郎から10代目の石原常八の作とされる彫刻が廻らされている。
                        
 明治時代には郷社に列せられ、第二次世界大戦後に宗教法人化された。今日では雷除けはもとより、氷嵐除けや豊作祈願、厄除けや安全、特に電気関係をはじめとする諸工事の安全の神として名高い。また、毎年大型連休中の例祭や、春の蝋梅(ろうばい)および椿が美しい神社としても名高い。例祭以外にも主に企業関係者による安全祈願や商売繁盛の祈祷の依頼が多く、5月中旬から初秋までの雷雨の季節を中心に頻繁に行われているという。

 境内は広大で、境内の中に雷電沼がある。古代、万葉集の東歌に「かみつけの いならのぬまの おおいぐさ よそにみしよは いまこそ まされ」と詠まれ雷電沼のほとりにはこの東歌を刻んだ碑がある。雷電沼からは龍駒・龍馬が飛び出したとも、あるいは龍が棲むとも伝えられ、日照りのときに雨乞いを行い、参拝者が身を清める沼でもあった。
               
                        「雷電沼」の由来の案内板

 ○上つ毛野いならの沼の大ゐ草、よそに見しよは、今こそ益され    万葉集巻14-3417 作     者未詳

 この沼の名残が、雷電神社の東の雷電沼である。雷電神社は、もとは広大な沼に浮かぶ小島にまつられていたという。むかし坂上田村麻呂将軍が蝦夷と戦って苦境におちいったとき、雷電社の神の化身という「不思議の童子」に救われた。将軍は、その報賽に、伊豆国板倉山から良材を運び、3年をかけて社殿を造営寄進した。延暦24年のことで、新築の祝の庭に、どこからか金色の冠を着けた翁が現れ、歌舞いをしたという伝えが残っている。

 本殿の裏手には、室町時代建立の群馬県最古の神社建築である奥宮が鎮座している。
                 奥宮(おくみや・写真左、右)群馬県指定重要文化財
 祭神は伊邪那美大神の祀られていて、家内円満・子授け・安産・縁結びなどを叶える女神とされている。

              
                   末社・八幡宮稲荷神社 国指定重要文化財
                     商売繁盛・五穀豊穣・子育て・武運長久

  室町時代の天文16年(1547)、飯野城主(いいのじょうしゅ)篠崎三河守(しのざきみかわのかみ)が造営。全国に7か所あるのみの二間社入母屋造(にけんしゃいりもやづくり)。真横から見る屋根の曲線美が見事で、群馬県内に現存する最古の神社建築だそうだ。祭神は八幡大神(やはたのおおかみ)・稲荷大神(いなりのおおかみ)の2柱。

  国指定重要文化財のこの社殿には、御扉が2組あり、その真ん中に一本の柱が立っている。これは、二間社造りと呼ばれ、重文クラスでは全国にも7箇所しかない珍しい造りという。室町時代、天文16年の御造営で、敢えて大いなる御力を封じ込め、やわらかい御恵みを戴こうということらしいが、何が封印されているのだろうか?
 



                                                                                                        

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下渕名大国神社

 下渕名大国神社は群馬県旧境町に鎮座している。境町は群馬県南東部で、伊勢崎市の東側、佐波郡にあった人口 約3万2千の旧町である。利根川中流北岸の沖積低地に位置し、利根川を南北に隔てて埼玉県本庄市、深谷市との県境となっている。
 中心の境は江戸時代に日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)の宿場町のひとつで繭,生糸の集荷市場として発達した。境町の名前の由来は室町から戦国時代に、上野国那波郡と新田郡の境目であったことから「境」という地名に変わったともいう。2005年(平成17年)1月1日に伊勢崎市と合併し境町は消滅した。

所在地    群馬県伊勢崎市境下淵名2827
主祭神    大国主命         
         (配祀)日葉酢媛命  渟葉田瓊入媛命  真砥野媛命 竹野媛命  薊瓊入媛命
社  挌    上野国延喜式内社 五の宮  旧郷社
例  祭    10月22日 秋季例大祭

        
 大国神社は伊勢崎市役所の東、国道17号線バイパスと県道が交わる旧境町に鎮座する。駐車場は県道側の道路沿いに専用駐車場があり、数台横並びに停められることができる。(後日参拝したところ、一の鳥居の北側にも駐車スペースがあり、そこのほうがより広い空間があった)
 この社は第11代垂仁天皇が東国に発生した大干ばつを収めようと勅使を派遣して祈らせたところ、この地に大国主神が現れて雨を降らせ、乾燥した大地が潤って水量豊かな渕ができたという。その伝承が渕名(ふちな)という地名にもなっているようだ。
           
                         下渕名大国神社一の鳥居

        
                   二の鳥居の左側にある由緒を記した案内板

大国神社
 上野国式内十二社大国神社縁起 境町大字下渕名字明神鎮座
 祭神  大国主命
 配祀神 渟葉田瓊入媛命、竹野媛命、日葉酢媛命、垂仁帝皇后、眞砥野媛命、筋瓊入媛命
       (外三柱)  罔象女旧御手洗神社祭神、素盞嗚命、事代主命旧八坂神社祭神

 延喜式神名帳に上野国大国神社あり上野国神社名帳に従一位大国神社とあるは即ちこの社である。
 縁記に曰く人皇第11代垂仁天皇の9年庚子四月より風雨順ならず、大旱打続いて蓄斃死するもの数を知らず天皇深く之を憂ひ給い諸国の神明に奉幣せられ東国には百済車臨遣はされて車臨この地に来り老松の樹下に宿る之即ち御手洗の亀甲松であった。偶々明旦前池に白頭翁の手洗ふを見たので問ふに叟は何人ぞと翁答いで曰く吾は大国主の命である。汝は誰だと車臨容を正して吾は天皇の勅を奉じて風雨順時疫病平癒の奉幣使百済車臨である願くは国家の為に大難を救助し給へと翁唯々と答ふ言下に雲霧咫尺を辨せず翁の姿は消えて影もなし須叟にして風巽より起り、甘雨澎湃として至り前地忽にして淵となった。
 因ってこの郷の名を渕名と呼ぶ様になり、これから草木は蘇生し悪疫悉く息み五穀豊饒土蒼生安穏となり天皇深く車臨を賞して左臣の位を授け大国神社を此の処に祀らしめ此の地を賜ったと云ふ。仝年15年丙午の年9月丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷して合祀した故に古より当社を五護宮又は五后宮とも書き第五姫大明神とも称した此の時第五媛の神輿に供奉した舎人に松宮内大須賀左内生形権真人石井田右内の四人があり、松宮内の子孫代々当社の祀宮として明治に至ったと伝へられて居る。
 後称徳天皇の神護景雲元年従五位上佐位采女勅に奉して上毛に下り社殿を修造し国造の神として、渕名荘三十六郷の總鎮守として尊崇殊に篤かった。文化元年甲子現在の社殿を改築し、明治七年熊谷縣管下北方十六区佐位郡波両郡四十二ヶ村の郷社に列し仝42年2月神饌幣帛料供進社に指定されたのである。
 世界大戦後は、祭典を止められ神社の財産も開放となったが由緒ある神社で、氏子を始め、四隣からの崇敬は目を追ふて古にかへりつゝある境内は2476坪地は天然の丘陵に位置し、近くは太田の金山遠くは常陸の筑葉山と相対し遥かに西南を望めば上武の連峯は雲烟模糊の間に縹沙として遠近の風光を収めて居る云之。社前は延徳2年庚戌4月16日本願法名清本秀行刻せる石浄手鉢一基あり、本御手洗の社前より移したものといふ。
 祭日 大祭 10月22日
 中祭 3月29日
 小祭 7月25日
  大祭は古来獅子舞の神楽を演じ奉納する習あり
 午時 昭和55庚申年10月22日
 平成9年10月吉日 総代長 新井昭二
                                                          案内板より引用


 参道を抜けるとひろばがあり、拝殿が正面に鎮座する。寺院のような重量感ある社で、特に屋根部が異常に大きい。
       
                             拝     殿

             拝殿上部                   参道社殿手前左側には渕名天満宮

      参道社殿手前右側にある浅間神社            浅間神社の先にある八坂神社
                   
                浅間神社と八坂神社の間付近にある大国神社の石鐘
大国神社の石幢
 指定重要文化財  大国神社の石幢
 昭和42年2月10日指定
 村の人たちが、「御手洗の后燈籠」と呼ぶこの石幢は、昔近くの御手洗池畔で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきた。
 石幢は鎌倉時代に中国から伝えられ、日本では幢身にじかに笠を乗せた単制のものと、当石幢のような石燈籠ふうのものが発達した。石幢は仏教でいう「輪廻応報」「罪業消滅」という人々の願いをこめて建立されたものと考えられ、ガン部と称する部分を火袋として点灯し浄火とした。
 全体では、自然石の芝付の上に大きい角石の台座を置き、その上に竿塔・中座・火袋・屋蓋・相輪と積み重ねられ、台座からの総高は2,38mもある立派なものである。特に中座と火袋がよく安定した感じを出し、屋根の流れと軒反りのはね方は室町時代の作風をよく表わしている。また輪廻車が当石幢にもあったらしく条孔が残っている。
 笠部には磨滅がひどく定かではないが、次の銘文が読みとれる。
 本願主法名 清本秀行
 延徳二年庚戌四月十六日
           
                             本     殿
 大国神社が鎮座する下渕名地区は群馬県佐波郡に属する。この佐波郡は元佐位郡と言われ、上野国13郡(701年・大宝令)の一郡でもあった。この地域一帯には嘗て檜前氏一族が一大根拠地を形成していたといわれている。
 檜前氏は応神天皇の時代に渡来した東漢氏の祖・阿智使主の末で、大和国飛鳥の檜前(現奈良県明日香村檜前)を本拠地として、全国に一族が配置されていたようだ。関東では上総(かずさ)国 海郡や上野(こうずけ)国 佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に点定している。
 
 続日本後紀・神護景雲二年(768)六月六日条に称徳天皇の采女(うねめ)として仕え、従五位下まで出世した檜前部老刀自(ひのくまべのおいとじ、檜前君老刀自)という人物が記されている。断っておくが「采女」の称号を受けているのでこの人物は歴とした女性である。
 *采女   地方豪族である郡司の長官・次官(少領以上の官)の姉妹、娘の美しい女性を天皇のもとに仕えさせる制度。

 この人物は「上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)」を賜姓、のち「本国国造(上毛野国造)」の称号を与えられていることから、檜前一族が佐位郡を中心にかなりの勢力を持ち、また上野国在住の地方豪族でありながら、近畿大和王朝とも太いパイプを保持していたと思われる。
 檜前一族は佐位郡に隣接している那波郡に一例の檜前氏が確認でき、また利根川南岸の武蔵国賀美郡にも檜前舎人直中加麿という人物がいたことは「続日本後紀」承和七年一二月二七日条にも記されている。少なくとも檜前一族が利根川中流域のある特定地域に勢力を張っていた根拠にはなるのではないだろうか。

 東京都浅草にはあの有名な金龍山浅草寺(せんそうじ)があるがすぐ隣には浅草神社が鎮座している。この浅草神社の御祭神は土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)で、この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになったという。合祀で徳川家康、大国主命を祀っている。
 社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。

 
 この説話から解る事実とはなんであろうか。ヒントは土師氏と桧前氏だ。土師氏は有名な野見宿禰の後裔とされ出雲臣系である(天穂日命→建比良鳥命→野見宿禰)し、桧前氏は続日本後紀では武蔵国の「桧前舎人」は土師氏と祖を同じくしとある。檜熊浜成と武成も桧前氏と同族かもしれないし、土師真中知とも同族、もしくはかなり近い親戚関係であった可能性が高い。つまりこの浅草神社の伝承からある時期土師氏と桧前氏はこの関東地域では同族関係にあったと推測される。

 土師氏と桧前氏が利根川(この場合現在の太平洋に注ぐ現利根川ではなく、荒川と合流して東京湾に注ぐ流路をとっていた江戸時代以前の本来の利根川)流域を共に根拠地としていた氏族である。同族関係、もしくは同盟関係であったならばこの一族同士の交流はあったろう。この場合舟運ネットワークとして利根川は格好の河川ではなかったろうか。

 

             八坂神社                      諏訪、住吉、稲荷神社等
                    
          大国神社本殿の奥の斜面上にある石祠。本来の本殿だったのだろうか。
 
        
       西宮、弥都波能女神と金神等        浅間神社の裏に庚申塔と冨士嶽神社、秋葉神社
                                                                                                      

 

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