上州三嶋神社
町内の大規模な工業団地により財政は非常に豊かで、対人口財源は群馬県下上位で、2007年より交付金不交付団体となっている。2006年の財政力指数は0.80であったが、2007年に1.11となった。それらを理由として、隣接する館林市などとの合併を拒み続けてきた。
町名の由来は、1955年(昭和30年)に千江田村、梅島村、佐貫村の三ヶ村の合併時に、公募により「明朗で平和な村に」という想いから新村名として「明和村」と名付けられたことによるという。
・所在地 群馬県邑楽郡明和町梅原262
・ご祭神 大山祇命 大己貴命 豊城入彦命
・社 格 旧明和総鎮守・旧郷社
・例祭等 鎮守例大祭・春季例祭 3月後半 夏季例祭 7月後半
秋季例祭 10月後半 新嘗祭 10月23日 他
羽生市利根川右岸にある「道の駅 はにゅう」から国道122号線を北上し、昭和橋を越え、群馬県明和町に入る。その後、「川俣」交差点手前にある邑楽用水路の十字路を左折し、1㎞程進んだ場所に社はある。旧郷社の格式がり、旧明和村の総鎮守として、地元の方からは「三嶋さま」と厚い信仰を受けている歴史ある社である。
上州三嶋神社正面
鳥居の社号額に刻印されている「明和総鎮守」がこの社の格式の高さを物語っている。
『日本歴史地名大系 』「梅原村」の解説
利根川左岸にあり、東は江口村、西は川俣村。中世は佐貫(さぬき)庄に含まれ、梅原郷と称した。元応元年(一三一九)九月二四日の佐貫梅原時信在家田畠売券(長楽寺文書)には「むめはら」とあり、時信は坪付注文を添えて郷内の在家付畠二反と田四反を三三貫五〇〇文で加地三郎左衛門尉女子尼仙心に売却、翌二年二月二三日の関東下知状(同文書)でこの売買が認められている。売却地には公田一反があって公事を出し、他は万雑公事がなかった。
正面鳥居のすぐ東側に真新しい社の看板等が設置されている。
鳥居を過ぎた境内の様子 神門前にある神橋
幾多の灯篭が参道を飾る
神 門
神門を過ぎると左手に境内社が祀られている。 羽黒山神社の右手に並んで祀られている
左は厳島神社、右は羽黒山神社 猿田彦神社、九頭龍大神等の石碑
石碑の先には境内社・仙元宮の鳥居が建つ(写真左)
鳥居の先には、小さな富士塚の石段があり、その塚上に浅間神社が鎮座(同右)
拝 殿
当社は「上州三嶋神社」を始め、近在からは「お宮」「三嶋さま」などと親しく呼ばれていますが、 その正式名称を「三嶋神社」と称します。 江戸時代末期の弘化3年(1846)、火災により社殿および古記録の一切を焼失したため、創建年月を含む由緒については不詳です。社説によると、伊豆国の三嶋大社(現在の静岡県三島市大宮町)から神霊を 勧請(お招き)した地方の古社と伝えられています。
江戸時代以降、明治時代に至るまでは、当社近在の梅原山月上院・光明寺(高野山真言宗)の住職が代々 「別当(神社を管理した僧侶)」を務めていました。 歴代住職の当社に対する信仰心は篤く、当社に残された御神宝や石塔などからその様子を うかがうことができます。
御神座近くに奉安されている御神鏡も、江戸時代中期の享保21年(1736)、当時の別当・光明寺弘誓と 惣氏子中より寄進されたものです。
現在の社殿(拝殿)は、焼失の翌々年、嘉永元年(1849)から翌2年(1850)にかけて再建されました。 再建事業は別当の光明寺英猛の主導の下、鎮座地の梅原村を中心に進められ、またこの再建を機として 火災等の事故を防ぐため、近隣の村落から神主家の祖が招かれて、神社内に居住して社殿を 管理するようになりました。
なお、再建にあたっては、名主・組頭といった村役人を大世話人として、梅原村の人々が中心となって 事業が進められましたが、江戸時代としては非常に珍しく周辺20ヶ村(現在の明和町全域・館林市南域・ 千代田町東部)からも寄付が寄せられており、当社に対する信仰が近隣地域にまで広く及んでいたことがわかります。
以後、拝殿は長年に及ぶ風雨や近年の大震災の影響によって、現在に至るまでに 幾度かの改修工事が行われましたが、再建から160年余り経った今も、往時の姿をしっかりと留めています。
その後、近代に入ると、明治5年(1872)11月、近隣8ヶ村(現代の明和町中部・東部)の総鎮守である 「郷社」に定められ、地域総鎮守として篤く信仰されました。
現在は群馬県を中心に、近隣の埼玉県や栃木県、茨城県からも、「勝負の神」「虎の神」、交通安全に 霊験あらたかな神様として、広く崇敬されています。
「上州三嶋神社公式HP」より引用
拝殿左側に祀られる合祀社 拝殿手前で参道右側に祀られている。
左から菅原神社・神明宮・愛宕神社 灯籠と九頭竜大神の石碑
奥には、神楽殿も見える。
「明和町教育委員会」発行の『明和町の文化財と歴史』では、当地は、民俗芸能の盛んなところであり、町内に獅子舞が斗合田・下江黒・千津井・江口の4地域に残っているというが、『明和村の民俗』によると、嘗ては上記4地域の他に、上州三島神社が鎮座する梅原地域にも獅子舞があったようだ。
明和町は洪水の常襲地だったから、ちょっとした出水も、すぐ田畑に冠水する地であったのだが、時には旱魃の害も受けたため、「雨乞い」が盛んに行われた。その方法は、普通板倉町の雷電神社に日参したり、総参りしたりするといった神頼みが中心であったという。また、雨乞いの際に、獅子舞を奉納することもあったようだ。
境内の一風景
参考資料「日本歴史地名大系」「明和町HP」「上州三嶋神社公式HP」「明和町の文化財と歴史」
「明和村の民俗」「Wikipedia」等