古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小見久伊豆神社

 小見久伊豆神社は、旧小見村の鎮守であり、幕政期は村内の修験専蔵院が別当をつとめていた。往時「久伊豆社」と号し、社号額に「正一位区伊豆社」とあることから、卜部の宣旨があったものと思われている。明治6年に村社に列格、明治43年には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀しているのだが、現在は「小見集会所」と繋がっているような造りとなっていて、小ぢんまりとした社となっている。
        
               
・所在地 埼玉県行田市小見935
               
・ご祭神 大己貴命 事代主命
               
・社 格 旧小見村鎮守・旧村社
               
・例祭等 例祭 1015
 国道125号バイパスを羽生市方面に進み、小見(南)交差点を左折すると右側に真観寺、及びその本堂の裏山のような形で現存する全長112mの小見真観寺古墳が見え、県道を挟んで北側には推定墳長約60mの前方後円墳である虚空蔵山古墳がある。この虚空蔵山古墳の100m程先にある丁字路を左折し、暫く進むと正面に小見久伊豆神社が見えてくる
        
                 
小見久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「小見村」の解説
 北は星川を隔てて荒木村、東も見沼代用水を境に同村。日光脇往還が南西から北東に貫いている。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領で役高六七〇石余。田園簿によれば田高二六〇石余・畑高四〇九石余で、旗本四家の相給。元禄一二年(一六九九)忍藩領となり(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書)、幕末まで続く。国立史料館本元禄郷帳ではほかに真観しんかん寺領がある。城付谷郷組に属し、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)は百姓本人七八・水呑一、家内人数四八〇(忍領覚帳)、享保一二年(一七二七)には本人八二(忍領石高社寺人別帳)。
        
                   境内の様子
『新編武蔵風土記稿 小見村』
「土人の說に當所は昔小見信濃守登吉が領知なりしゆへ、後に村の名に唱へしといへり、彼登吉は成田氏の家人にして、百貫文を所務せしこと其家の分限帳に載せ、近き世の人なれば、此人當村に住せしをもて、却て在名を氏となせしも知べからず、又同書に小見源左衛門
・小見源蔵と名を記す、是も登吉が一族なるべし」

『新編武蔵風土記稿 小見村』に記載されている「小見・麻績(おみ)」氏は、日本の氏族の一つで、平姓小見氏(小海氏)、源姓麻績氏(小見氏)、藤原姓小見氏(麻績)等の一派があり、そのうち武蔵国埼玉郡小見邑(現・埼玉県行田市小見)発祥の小見氏は、藤原姓小見(麻績)氏の出といわれている。この氏族は、藤原秀郷を祖とする足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族であり、戦国時代の末に、佐野秀綱の弟是綱が下野国安蘇郡麻績郷(現・栃木県佐野市小見)を領し小見是綱と名乗ったことが始まりという。
・田原族譜「佐野越前守成綱(正和五年卒)―小見左衛門尉是綱―小見左衛門佐盛綱―小見小太郎左京進義綱―小見左京大夫行綱―小見左衛門佐行清―小見三郎行秀(武蔵守、武州小見城主)―小見出羽守秀政―小見下総守正国―小見左兵衛門伊勢守行国(弟池林三郎行久、其弟池上四郎行家)―小見越後守行春、弟佐山二郎行武(後安芸、佐山城主)、其弟鯉塚右京大夫行氏(伊賀介、鯉塚城主)、其弟箱田左門行吉(安房守、藤岡住)。出羽守秀政の弟若小国伊豆守秀房―砂永右京助政行(武州成田住)―砂永大膳吉行(入道一徳)」
 
 参道左側に祭られている境内社。詳細不明。  その右側並びには「久伊豆神社改築碑」あり。

 この境内社に関しては、明治43年217日には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀しているので、その合祀社であるか、同2年神仏分離の際、附近の寺院に祀られていた八坂神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・三島神社・御嶽神社・榛名神社・天神社の八社を集めた境内末社ではなかろうか。
        
                    拝 殿
 久伊豆神社  埼玉県行田市小見九三五
 当社は小見村の鎮守であり、幕政期は村内の修験専蔵院が別当を務めていた。往時「久伊豆社」と号し、社号額に「正一位久伊豆社」とあることから、卜部の宣旨があったものと思われる。
 文化十年の奉納額に「武蔵なる小見邨の鎮守、本地は馬頭観世音にして毎歳祭礼七月十九日也とききぬ、御口は本迹無二の誓約ならめと仰ぎ奉り得る、久伊豆の大明神も水草の外に余念の無き馬頭尊、癸酉夏六月廿四日、密宗八十二翁道本」と記してあるほか、専蔵院時代の記録はない
 明治九年一月の「久伊豆営繕常備金貸付帳・第十四区小見村」をはじめとして文書十数点を蔵する
 明治六年に村社となり、同四十三年二月十七日には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀する
 本殿は一間社流造りであり、祭神は大己貴命・事代主命である。境内末社は、明治二年神仏分離の際、附近の寺院に祀られていた八坂神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・三島神社・御嶽神社・榛名神社・天神社の八社を集めたものという
 大正十二年、関東大震災により拝殿全壊、同十四年再建する
 社有地は山林四畝十五歩を残し、明治期合併により得た土地は農地解放により失っている
                                   「埼玉の神社」より引用

        
                   社殿からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
    「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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真名板久伊豆神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市真名板1312
              
・ご祭神 大己貴命
              
・社 格 旧上下真名板村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例祭 1015
 行田市・真名板地域は同市東端部に位置していて、西で下須戸・藤間・小針、南で関根、北で羽生市下新郷、東で加須市串作・阿良川・外田ヶ谷に接する。埼玉県道32号鴻巣羽生線が縦断し、北端の概ね羽生市との境界線上を埼玉県道128号熊谷羽生線が通過していて、西端で見沼代用水に接している。
 真名板高山古墳から南北に通じる埼玉県道32号鴻巣羽生線を隔てて北西方向で、目視でも確認できるくらい、近距離に鎮座している。周囲は一面広々とした田畑風景の中に、ポツンと社叢林が見えるので分かりやすい。
        
                 
真名板久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』 「真名板村」の解説
 西は藤間村、北は下新郷村(現羽生市)、東は串作(くしつくり)村(現加須市)。薬師堂境内に真名板高山古墳があり、墳丘には「吾妻鏡」寛元三年(一二四五)一月九日および同四年一月六日の弓始の条にみえる真板次郎、同五郎次郎の館跡土塁が一部残るという。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、幕府領分役高一一六石余、旗本領分役高四〇〇石余。

「真名板」という地域名は難解地名の一つといわれていて、調理で食材を切る際に台として用いる「まな板」を連想させる名前であるため、料理用具に関連する地名かとも思える。但し、『新編武蔵風土記稿』にもこの地名があるため、この地名は少なくとも江戸時代以前からあったと考えられる。また、鎌倉時代にはこの地域名を冠し、鎌倉時代にはこの地域名を冠し、「吾妻鑑」にも鎌倉幕府の御的始に十一回出場の弓の名手と云われた「真板五郎次郎経朝」が登場する
吾妻鑑巻三十五「真板五郎次郎経朝」
・ 〃 
巻四十二「建長四年十一月二十一日、真板五郎次郎大中臣経朝」
 尚、現行田市真名板地域には、新義真言宗花蔵院という寺院があって、明治時代に廃寺となっているのだが、吾妻鑑の真板氏館跡と伝え、薬師堂門前に真板氏館跡の碑がある。
 この「真板」氏は「まないた」氏とも読み、「真名板」とも表記する。
        
                                   参道の様子
 さて、この「真名板」地名由来として、地形に関係しているという説がある。つまり、「まな」=「まな+ご(真+砂)」という意味で、小石や砂利を指しているという。この地域の北側には古利根川(会の川)が流れていて、河川が運んできた小石や砂利が地形を形成し、そこから名前がおこったと考えられるとの事だ。
 考えてみると、近くにある真名板高山古墳は、埼玉県下で7番目の大きさの前方後円墳だか、利根川などの氾濫や関東造盆地運動により本来の地表面が地下に約3m埋没しており、本来は全長約127mで、墳丘の高さは前方部、後円部ともに約910m。二重で盾形の周堀(深さ2m)があり、この古墳の南西約4kmにある埼玉古墳群の二子山古墳に次ぐ規模の古墳であることが判明している。
「真名板」地名も当然地形を表す地名という事になろう。

    参道右側にある伊勢参宮記念碑       参道左側にも伊勢参宮記念碑が建つ。
  その左側には
辨才天の石祠が祭られている。   この社には伊勢参拝記念碑が多くある。
       
                                       拝 殿
 久伊豆神社  行田市真名板一三一二
 当社の由緒は不詳である。境内近くに真名氏の館跡と伝える花蔵院通称薬師堂があるが、社より寺の方が古いかもしれぬと氏子は言う。正式には真言宗薬王山花蔵院と称し、現在は曹洞宗全龍寺が管理している。「風土記稿」によると花蔵院が当社の別当であった。なお、明治年間に花蔵院が焼け、関係文書も焼失したので、近世以前の事が全く不明となってしまった。
「明細帳」によると、主祭神は大己貴命であり、明治四年に村社となり、同四一年に上・下耕地の八坂社、三ツ家の浅間社を合祀している。しかし、この合祀では、下耕地の八坂社は移転せず、浅間社は薬師堂隣接の高山古墳上に移されている。また、上耕地の八坂社は境内に合祀され、現在の社号標傍らに移されていたが、老朽化のため昭和二〇年に取り壊された。
 社殿は明治二〇年に焼失し、その五か月後に仮殿を設け、同二八年に再建された。なお口碑によるとこの時、拝殿は他村より購入し、解体して運んできたという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
       
                                       本 殿
       
                                  社殿からの一風景
       
                               社から見た真名板高山古墳


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
    「Wikipedia」等

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藤間神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市藤間453
              
・ご祭神 倉稲魂命
              
・社 格 旧藤間村鎮守 旧村社
              
・例祭等 春祭り(日待)4月14日 八坂祭 7月7日
                   燈篭祭り 10月14日 
 藤間地域は、行田市東端部に位置し、西で下須戸・小針、東・南・北で真名板に接する概ね見沼代用水の左岸にあたるが、小針との間に相互に対岸飛地がある。また、同地域北端付近を埼玉県道128号熊谷羽生線が東西方向に走っている。
 途中までの経路は関根神社を参照。関根神社の東側隣にある「関根農村センター」から南北に通る道路を1.3㎞程北上すると、進行方向左手に藤間神社が見えてくる。但し社のすぐ南側で道路沿いには民家があり、街路樹等に囲まれている為、社を見過ごすかもしれないので注意は必要だ。
 また、社周辺には適当な駐車場はないため、一旦300m程北側にある「藤間会館」の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                                   藤間神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「藤間村」の解説
見沼代用水の東岸、下須戸村の南、小針村の東にあたる。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領で役高一〇九石余。田園簿によると田高六〇石・畑高四九石、旗本加藤領。国立史料館本元禄郷帳、「風土記稿」成立時、幕末の改革組合取調書でも同家領で、同家領として推移したと考えられる。
 
         
「大弁才天女像」                  鳥居の左隣にある「青面金剛像」
  奥州金華山と書かれ、明和八年(1771)建立
              
                参道途中の巨木の根元にも「
青面金剛像」が祭られている。
            当地の人々の信仰心の高さを物語る文化財だ。
        
                                       拝 殿
『新編武蔵風土記稿 藤間村』
 稻荷社 村の鎭守なり、眞名板村花藏院持、
 雷電社 持同じ、
 *眞名板村花藏院 新義眞言宗、上ノ村一乗院末、薬王山と号す、本尊不動を安ず、
 薬師堂 此堂の傍に親鸞上人の弟子、沙弥西念と云ものゝ建しと云碑あり、

 藤間神社  行田市藤間四五三
 藤間の地理は見沼代用水(星川)をはじめ数本の用水が北西より南東へ貫流し、雨量が多い時には溢水に遭うほどの低地であるが、平素は「藤間さんまで米の飯、小針はヤキビン(余り飯にうどん粉・味噌を加え焼いたもの)砂ヤキビン云々」と言われるほど肥沃な土地である。
 古く、当地には五ノ口の稲荷神社(当社)と一ノ口の雷電神社の二社があり、「風土記稿」によると、両社とも江戸期には真名板村の真言宗花蔵院が管理しており、稲荷神社が村の鎮守として信仰されていた。祭りは、稲荷神社が二月初午、雷電神社が七月二五日となっていた。
 明治初めの神仏分離により、寺の管理を離れた両社は、稲荷神社が無格社、雷電神社が村社と格付けられた。
 明治四〇年には、稲荷神社境内の右側に雷電神社を合祀するとともに、雷電神社末社の浅間社・塞神社を境内に合祀した。これにより旧来の社名稲荷神社を地名から藤間神社と改めた。祭神は倉稲魂命である。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿の右並びに祀られている雷電社      社殿奥に祭られている仙元大菩薩の石碑
 当社は藤間神社となった今でも「稲荷様」の名で親しまれている。現在の祭りでは、4月14日は「日待」と称する春祭りがあり、14日早朝、総代が神社の扉を開いて太鼓を打ち、祭りを氏子に知らせる。神前に酒を供えて祭典があり、終わると拝殿で直会が開かれる。
 10月14日は「灯籠」と呼ばれ、前日の13日に境内に灯篭の準備や飾りつけがなされる。大正末期までは「藤間遊楽団」が組織され、境内には舞台を掛け、万作踊りや芝居を奉納したようだ。この遊楽団は、加須の串作・羽生の新郷、行田の須戸と各地に招かれ芝居を演じていたという。
        
                   境内の一風景
『行田の神々24 藤間神社(藤間) 第58話』
 藤間地区の見沼代用水沿いに鎮座しています。かつては、村内に稲荷神社、雷電神社がありましたが、明治四〇年に稲荷神社境内に雷電神社が合祀され、社名も稲荷神社から地名をとり藤間神社に改めたといいます。祭神は「倉稲魂」が祭られています。
 この神は「倉稲魂」と書いてウカノミタマと読むことが『日本書紀』にあり、『古事記』の『宇迦之御魂神』と同一神でスサノオノミコトの子として出てきます。
 ウカノミタマというあまり馴染みのない名前の神様に思えますが、実は五穀豊穣、商売繁盛の神様として全国で最も多く祭られている稲荷社に主祭神として祭られている神様で、私たちにとって身近な神様です。
「倉稲魂」は、倉と稲魂(いなたま)とに漢字を分けて考えると理解しやすく、倉の中に祭られる稲魂の意であり、稲魂は稲霊(いなだま)で稲の穀霊を神格化したものといわれます。
 弥生時代から穂刈りをした稲を鼠などの害から守るために高床式の倉庫に保存していました。そうした風景を重ねると理解しやすい神名といえます。
 平成十年は天候不順のためか、米作りもやや不作でした。弥生時代の米作りが確認された星宮の小敷田遺跡の発見により、埼玉県において最も古い米作りの伝統を持つことが明らかになった行田の米作りです。新たな年を迎え、今年は実り豊かな年でありますよう期待しています。

 
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「
行田の神々24」等

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下中条治子神社


        
             
・所在地 埼玉県行田市下中条1665
             
・ご祭神 天手長雄命
             
・社 格 下中條村鎮守・旧村社
             
・例祭等 例大祭(下中条の獅子舞) 818日に近い日曜日
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1892365,139.4645613,15.42z?hl=ja&entry=ttu
 須賀熊野神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を西行し、「利根大堰」交差点を直進し、400m程進んだ右側に鎮座している。以前はここより150m程西にあったが、利根川堤防拡張工事の関係で移設を行なったようで、社殿や社務所も新たに建てられたようだ。白木の美しい社務所の南側には十数台駐車可能なスペースも確保されている。
        
                 下中条治子神社正面
 美しい社。移設に伴い、社殿や社務所、手水舎等の施設は勿論の事、境内全体も新しく整備したようで、見た目も綺麗である。境内周囲にある社叢林もなく、若い木々である。何より遠目から見ても白木の社殿の美しさには、我々日本人の美的感覚を擽(くすぐ)られ、恥ずかしながら、一時時が止まったかのように暫く見とれてしまった。
 勿論人の手による人工的な建造物であることは違いないのだが、今流行りの近代的な建物に比べると、木本来の美しさを日本人技術者(職人)が熟知し、加工を加えることにより、日本独特の木造建造物を創り出したと言えよう。思えば、日本全国に鎮座する数万社ともいわれる神社も、創建当時はこのような美しさであったのだ。
 
それと同時に社の創建に伴う、現実的な予算は如何ばかりであったろう。地方自治体の補助金だけでなく、地域の氏子・総代・地域住民等からの志(こころざし・寄付金)も決して少なくはなかったはずで、社の移転が決まり、完成に至るまでの経緯やそれまでの苦労を思うと、頭が下がる思いだ。
 鳥居正面に立ち、ふとそのような取り留めのないことを考えてしまった次第だ。
        
             石製の白い鳥居が盛暑の空に一際目立つ。
            利根川堤防が東西に広がる地に社は鎮座する。
『日本歴史地名大系』 「下中条村」の解説
 [現在地名]行田市下中条
 北は利根川に接し、南は斎条(さいじよう)村、東は見沼代用水を隔てて須賀(すか)村。荒川扇状地末端約五キロ平方にわたり、地下一メートルの所に埋没している古代条里遺構の西端に上中条村(現熊谷市)があり、東端に当村が位置していると解されている。縄文時代後期および古墳時代の集落遺跡がある。古くは幡羅(はら)郡の東端であったとする説がある。
 天正一九年(一五九一)六月松平家忠が一万石を宛行われたが、このうちに「下中条村」の三一七石余も含まれた(「伊奈忠次知行書立」長崎県片山家文書)。
        
        新しく造られた事もあり、参道や境内も綺麗に整備されている。
        一対の狛犬は昔からのもののようで、新しい台座の上に立っている。 
『新編武蔵風土記稿』によれば「天手長雄命」がご祭神として祀られているとの記載がある。天手長雄神は知る人ぞ知る壱岐国一宮の天手長雄神社のご祭神で、正式名は「天手力雄命」。この神は埼玉県、特に北部に多く祀られている神であり、どのような経緯で武蔵国まで伝搬したか、いつかは考察したい神である。一方、『埼玉県の神社』では「治由保大神(ちゆほのおおかみ)」、『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々』では、天照大神の末子である「治子大明神」がご祭神となっている
 また社の名称「治子」も行田HPによれば「はるこ」と読んでいるが、「八百万の神HP」「神社人HP」では「じこ」、又は「ちこ」と訓よみされている場合もあり、正式な名称はハッキリとは分からない。
 どちらにしろ、どことなく不思議な香りが漂う社である。
        
          鳥居を過ぎて参道を進むと、右手に設置されている「治子神社改築記念碑」
        
           記念碑の並びには境内社・浅間神社が鎮座する。
 塚上には「御嶽神社」「角行霊神・食行霊神」「亀岩八大龍神」等多くの石碑が祭られている。
 
 これも新調した手水舎。参道の右側にあり。    境内社・浅間神社の並びにある石碑・石祠群
   手水舎の奥には「宝物殿」が見える。   石祠には「不士山・水天宮・大黒天・庚申塔」等あり
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 下中條村』
 冶子明神社 村の鎭守なり、祭神は天手長雄命と云、
 別當金藏院 小角山と號す、本山修驗、幸手不動院配下、開山秀範慶長十一年十一月化す、

       本尊不動を安ず、
『ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より』
 治子神社(下中条)
 言い伝えによると、忍城主の成田氏が城の鎮守神として治子神社を祭ったとも、また、室町時代の応永八年に鎌倉から遷座したともいわれています。
 祭神は、天照大神の末子治子大明神とも、天手長雄命ともいわれていますが、神社と寺が一緒であった時代の別当金蔵院は修験であり、その影響で当社の内陣には木造の聖観音像が祭られています。
 当社と隣接する興徳寺を中心に「下中条の獅子舞」が残されています。十八世紀後半の天明年間に利根川の洪水があり、獅子頭が漂着したので神前に奉納し獅子舞を舞ったのが始まりといいます。
 災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか八月十八日の治子神社の例大祭(今日ではこれに近い日曜日)には神社と興徳寺で獅子舞が奉納されます。
 弓、花、笹、注連、鐘巻など奉納される多くの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしたものです。
 さらに下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあり、昭和五五年埼玉県指定民俗文化財に指定されました。
       
                                    本 殿
 ところで、下中条地域の獅子舞は、「下中條の獅子舞」ともよばれ、市内下中条地区に伝わる民俗芸能で、現在は下中条獅子舞保存会が保存・継承し、治子神社(はるこじんじゃ)、興徳寺(こうとくじ)を中心に奉納されているという。

             社殿左側に祭られている合祀社(写真左)・境内社(同右)
 左側の合祀社は、左から諏訪神社 八坂神社 稲荷神社 天神社 白山神社が祀られている。
合祀社のすぐ右手並びには、境内社・神明社が鎮座。神明社の左には「水神」「?」の石祠がある。
       
        社殿右手奥に祀られている「御嶽山大神・八海山大神・三笠山大神」等の石碑群
 他には「蚕影山、豊受大神・富士嶽神社・愛宕大明神・稲荷大明神」等の石碑が祭られている。
       
                                 社殿からの風景

「下中條の獅子舞」の起源については不詳ですが、言い伝えでは天明年間(17811789)の利根川大洪水の時に獅子頭が漂着し、これを神前に奉納して始まったと言われています。また、慶長5年(1598)に鎌倉の長谷から移住してきた長谷川家が下中条村を拓いた時から始まったとも言われていますが、その目的は厄除け、尚武のためと言われます。
 弓、花、笹、注連、鐘巻(かねまき)などの演目の中で、特に鐘巻は北埼玉地方に残されている演目であり、鐘の中の大蛇を獅子が退治する内容で、歌舞伎でおなじみの娘道成寺を題材にしています。また、下中条の獅子舞の大きな特色は、棒術(棒剣道)が獅子舞と一緒に残されていることにあります。
 現在は災難から村を守る厄神除けや四方固めのほか818日(現在はこれに近い土曜日)の治子神社の例大祭に演じられています。
 区分 県指定民俗文化財
 種別 無形民俗文化財
 所在地 行田市下中条
 形態 三匹獅子舞
 指定年月日 昭和55329
                                  「行田市 
HP
」より引用


        
      下中条治子神社から南西方向(直線距離にして250m程)に愛宕神社が鎮座している。
 創建時期等は不明。『新編武蔵風土記稿』でも「「愛宕社 太神宮 神明社 以上三社、金藏院持、」としか記載がない。
 
         社 殿          鳥居の右手に銀杏の巨木が聳え立つ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」ぎょうだ歴史系譜100話 行田の神々より」
    「行田市 HP」等
   

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堤根伊奈利神社天神社合殿・樋上天満天神社

堤根伊奈利神社天神社合殿
        
               
・所在地 埼玉県行田市堤根742
               
・ご祭神 倉稲魂命 菅原道真公
               
・社 格 旧堤根村鎮守
               
・例祭等 初午祭 3月初午 獅子祭 75日 例大祭 828
                                        大祓 1224
  
地図 https://www.google.com/maps/@36.1119305,139.4734587,17.25z?hl=ja&entry=ttu
 鴻巣市旧吹上町内の下忍愛宕神社から埼玉県道148号騎西鴻巣線を北東方向に進み、新忍川を過ぎて最初の信号のある十字路を左折、200m程北上すると進行方向右手に堤根伊奈利神社天神社合殿が鎮座する場所に到着する。但し社が鎮座している場所から道路はやや離れていて、丁度民家が数件建っているので、やや目視しづらい場所にはある。
 社の北隣には「堤根農村センター」があり、その脇には駐車可能なスペースもあるので、そこに停めてから参拝を行う。
 渡柳常世岐姫神社とは南北に流れる武蔵水路を挟んで北西方向、直線距離にして700m程で、比較的近い位置関係にある。
        
                             
堤根伊奈利神社天神社合殿正面
『日本歴史地名大系』 「堤根村」の解説
 北から東へは渡柳村、北から西は樋上(ひのうえ)村、南は袋村(現吹上町)。古墳時代後期の円墳と集落遺跡がある。「風土記稿」は編纂当時、当村の属した郷庄名が不明であり、慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「向箕田郷ノ内忍領堤根村」と書かれたものがあったので、古くは足立郡であったかとする。
 村の西側にある古堤は天正一八年(一五九〇)石田三成が忍城を水攻めにした堤で、それが村名になった(風土記稿)。三成は「樋上邑・堤根村ヘ新堤ヲ築、袋・鎌塚・門井・棚田・大井村ノ古堤ヘ築合」(武蔵志)したという。石田堤として県の史跡に指定される。
        
『新編武蔵風土記稿 堤根村』には村名の由来として、「
村内の西方に古堤あり、袋村より起り樋上村に續けり、此堤は天正十八年石田三成忍城を水責にせんと、久下堤を切て荒川の水を堰入し時、新に築し所なりと云、後この堤の下に村落をなせし故、たゞちに村名とせり」と記されていて、石田三成が忍城を水攻めにした際の「堤」下に集落が形成され、その「堤下」が「堤根」に名称が転訛したという。
        
                              石段上に鎮座する拝殿覆屋
 周辺は元荒川流域周辺の低地帯であり、洪水対策の為の盛り土上に鎮座しているのであろう。

『新編武蔵風土記稿 堤根村』
 稻荷社二宇 一は本村にあり、一は新田にあり。共に鎭守とす。永徳寺の持、
   
 伊奈利神社
 当社は、往古より堤根の鎮守として祀られている。「明細帳」によれば、元禄期に堤根村が本村と新田に分かれたことにより、当社もまた両村に分かれ、本村のものは本田鎮守、新田のものは新田鎮守と称して祀られていたという。共に永徳寺を別当とし、享保1032日に神祇管領兼敏より正一位に叙され、この時贈られた神位の入った神璽筈は現在も両社に祀られている。
 明治初めの神仏分離によって永徳寺の管掌から離れたため、創建以来永徳寺の境内にあった本田鎮守を新田鎮守の境内に移し、新たに覆屋を造り、その中に両社の本殿を納め、今日の形となった。本殿は両社とも同一のもので、享保2年に建築された一間社流造りである。
 また、覆屋の中にはこの両社のほかに、天神社がある。この天神社は享保2年に、伊奈利神社の新築を契機に合祀されたものというが、資料を欠くため、元はどこにあったのかは不明である。
 現在、境内に樹木は少ないが、かつては鞍・櫓の大木が鬱蒼と茂っていた。しかし、昭和23年の永徳寺新築の際、これらの樹木を資材として提供し、その後植林した樹木も相次ぐ台風で倒れてしまったため、往時の面影はない。昭和53
年、境内地を利用した堤根農民センターの建設に伴い、境内の整備が行われ現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
 石段を上った境内左側で、狛犬の右手には塞神の石碑がある(写真左)。またその石飛の右並びには、石碑二基(宇賀神・塞神、塞神)を祀っている屋根付きの「囲」、その隣には境内社がある(同右)。境内社の詳細は不明。

 塞神は、日本の民間信仰における神の一つ。村や部落の境にあって、他から侵入するものを防ぐ神という。別名「岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)」といい、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。
        
                       社殿から見た参道周辺の風景


樋上天満天神社
        
              ・所在地 埼玉県行田市樋上187
              ・ご祭神 菅原道真公
              ・社 格 旧樋上村鎮守
              ・例祭等 不明
  地図 https://www.google.com/maps/@36.1181384,139.4717502,17.33z?hl=ja&entry=ttu
 堤根伊奈利神社天神社合殿から南北に通じる道路を450m程北上すると、樋上天満天神社に到着する。『新編武蔵風土記稿 樋上村』においても、「正保の頃堤根村と一村なりしに、元祿の改めに分て二村とせり、されば領主の遷替、檢地の年代、用水等凡て堤根村に同じ」と記載され、元禄年間(16881704)前までは堤根村と一村であったという。
 それにしても昔から日本人は記録を小まめに残す几帳面な民族であったことが、このような文書一つ取ってみても分かる。そのおかげで、現代に生きる我々にも、祖先が辿った歴史の原風景が少しは分かるので大変ありがたい。
        
              道路沿いに鎮座する樋上天満天神社
『日本歴史地名大系 』「樋上村」の解説
 北は佐間村、西は下忍村、南は堤根村に接している。村域には古墳・方形周溝墓を含む集落跡の鴻池(こうち)・武良内(むらうち)の二遺跡がある。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に「堤根樋上」とみえ、幕府領で役高九一七石余。同一六年忍藩領となり、幕末まで変わらず。田園簿によると「樋上堤根村」の村高は高辻帳と同じ、反別は田方六九町二反余・畑方三五町二反余。元禄郷帳では樋上・堤根・堤根新田の三村に分けられ、いずれも三〇五石余に三等分されている。

 行田市下忍・樋上地域には、「高畑遺跡・武良内遺跡・鴻池遺跡」と呼ばれる古墳時代前期の遺跡が発掘されている。国道17号バイパスの建設に伴って昭和50年(1975)から翌年にかけて発掘された。北から南に三遺跡は並び、この順に調査は行われた。高畑遺跡は微高地上に立地し、古墳時代前期の住居跡や方形周溝墓などが発掘されている。武良内遺跡は忍川に接した自然堤防上に立地し、古墳時代前期の住居跡、方形周溝墓、埴輪をもつ古墳跡などが発掘されていて、早くから人の手による開発が進められた地であることが分かる。
        
                    拝殿覆屋
『新編武蔵風土記稿』
 天神社 村内の守なり、寶珠院持、

 天満天神社
 樋上の地名は、用水の樋に由来するというが詳細は不明である。地内に古墳後期の集落遺跡がある。
 社記に「慶長十三申年十二月本村検地帳二天神前或ハ天神後、天神キワト載セタリ然レバコレ以前ノ勧請ナルべシ」とある。
 また、口碑に「樋上天神社は、寛永年中家数も少なかった氏子が厚い信仰心から、高いお金を出し合って造ったもの」とあり、昭和52年に本殿覆屋の屋根替えをした時、寛永と宝暦の年紀がある棟札が見つかった。その後、棟札は再び棟に納められている。
「風土記稿」に「天神社 村内の鎮守なり、宝珠院持」とあり、真言宗宝珠院が別当であったことが知られる。
 本殿の床板は張られていない。これは当地が日光街道聖裏街道に当たり博徒の往来が多く、氏子もこの影響を受け当社に集まっては博打をした名残である。本殿は手入れを受けた時の逃連用抜け穴の入日であった。幣芯を失った金幣が、穴の上に一枚の板を置いて祀ってある。
 本殿前に置かれた石製の牛像一対は「享和元年酉五月吉日」の銘があり、佳作である。
 境内社に、大己貴命を祀ると伝えられる松社と、少彦名命を祀るという梅社があるが由緒は不詳である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
        境内社・梅社               境内社・松社 
       
                          境内東側隅にある石碑等


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等
       

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