小見久伊豆神社
・所在地 埼玉県行田市小見935
・ご祭神 大己貴命 事代主命
・社 格 旧小見村鎮守・旧村社
・例祭等 例祭 10月15日
国道125号バイパスを羽生市方面に進み、小見(南)交差点を左折すると右側に真観寺、及びその本堂の裏山のような形で現存する全長112mの小見真観寺古墳が見え、県道を挟んで北側には推定墳長約60mの前方後円墳である虚空蔵山古墳がある。この虚空蔵山古墳の100m程先にある丁字路を左折し、暫く進むと正面に小見久伊豆神社が見えてくる。
小見久伊豆神社正面
『日本歴史地名大系』「小見村」の解説
北は星川を隔てて荒木村、東も見沼代用水を境に同村。日光脇往還が南西から北東に貫いている。寛永一二年(一六三五)の忍領御普請役高辻帳(中村家文書)に村名がみえ、旗本領で役高六七〇石余。田園簿によれば田高二六〇石余・畑高四〇九石余で、旗本四家の相給。元禄一二年(一六九九)忍藩領となり(同年「阿部氏領知目録」阿部家文書)、幕末まで続く。国立史料館本元禄郷帳ではほかに真観しんかん寺領がある。城付谷郷組に属し、元禄―宝永期(一六八八―一七一一)は百姓本人七八・水呑一、家内人数四八〇(忍領覚帳)、享保一二年(一七二七)には本人八二(忍領石高社寺人別帳)。
境内の様子
『新編武蔵風土記稿 小見村』
「土人の說に當所は昔小見信濃守登吉が領知なりしゆへ、後に村の名に唱へしといへり、彼登吉は成田氏の家人にして、百貫文を所務せしこと其家の分限帳に載せ、近き世の人なれば、此人當村に住せしをもて、却て在名を氏となせしも知べからず、又同書に小見源左衛門・小見源蔵と名を記す、是も登吉が一族なるべし」
『新編武蔵風土記稿 小見村』に記載されている「小見・麻績(おみ)」氏は、日本の氏族の一つで、平姓小見氏(小海氏)、源姓麻績氏(小見氏)、藤原姓小見氏(麻績)等の一派があり、そのうち武蔵国埼玉郡小見邑(現・埼玉県行田市小見)発祥の小見氏は、藤原姓小見(麻績)氏の出といわれている。この氏族は、藤原秀郷を祖とする足利氏の庶流佐野氏の流れをくむ氏族であり、戦国時代の末に、佐野秀綱の弟是綱が下野国安蘇郡麻績郷(現・栃木県佐野市小見)を領し小見是綱と名乗ったことが始まりという。
・田原族譜「佐野越前守成綱(正和五年卒)―小見左衛門尉是綱―小見左衛門佐盛綱―小見小太郎左京進義綱―小見左京大夫行綱―小見左衛門佐行清―小見三郎行秀(武蔵守、武州小見城主)―小見出羽守秀政―小見下総守正国―小見左兵衛門伊勢守行国(弟池林三郎行久、其弟池上四郎行家)―小見越後守行春、弟佐山二郎行武(後安芸、佐山城主)、其弟鯉塚右京大夫行氏(伊賀介、鯉塚城主)、其弟箱田左門行吉(安房守、藤岡住)。出羽守秀政の弟若小国伊豆守秀房―砂永右京助政行(武州成田住)―砂永大膳吉行(入道一徳)」
参道左側に祭られている境内社。詳細不明。 その右側並びには「久伊豆神社改築碑」あり。
この境内社に関しては、明治43年2月17日には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀しているので、その合祀社であるか、同2年神仏分離の際、附近の寺院に祀られていた八坂神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・三島神社・御嶽神社・榛名神社・天神社の八社を集めた境内末社ではなかろうか。
拝 殿
久伊豆神社 埼玉県行田市小見九三五
当社は小見村の鎮守であり、幕政期は村内の修験専蔵院が別当を務めていた。往時「久伊豆社」と号し、社号額に「正一位久伊豆社」とあることから、卜部の宣旨があったものと思われる。
文化十年の奉納額に「武蔵なる小見邨の鎮守、本地は馬頭観世音にして毎歳祭礼七月十九日也とききぬ、御口は本迹無二の誓約ならめと仰ぎ奉り得る、久伊豆の大明神も水草の外に余念の無き馬頭尊、癸酉夏六月廿四日、密宗八十二翁道本」と記してあるほか、専蔵院時代の記録はない。
明治九年一月の「久伊豆営繕常備金貸付帳・第十四区小見村」をはじめとして文書十数点を蔵する。
明治六年に村社となり、同四十三年二月十七日には字屋敷通の無格社諏訪神社・無格社天神社、字白鳥通の無格社塞神社を合祀する。
本殿は一間社流造りであり、祭神は大己貴命・事代主命である。境内末社は、明治二年神仏分離の際、附近の寺院に祀られていた八坂神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・三島神社・御嶽神社・榛名神社・天神社の八社を集めたものという。
大正十二年、関東大震災により拝殿全壊、同十四年再建する。
社有地は山林四畝十五歩を残し、明治期合併により得た土地は農地解放により失っている。
「埼玉の神社」より引用
社殿からの眺め
参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「行田八幡神社HP」
「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等